最後の戦。

それを控えて張り詰めている大阪方の陣中で、くのいちはここにいてはいけない人物を目撃してしまった。

その姿はくのいちでなければ見つけることが出来ないほど、悠々と闇夜を舞っていた。

さすがに捨て置くわけにもいかず、周りの人間に気付かれないように、そっと後を追う。

闇に生きる者だからか、夜半にはむしろ堂々としているようにも見えた。

何が目的なのか、徐々に人気のない場所へ移動していることに、くのいちは気付く。

そして、辺りから人の気配が全くしなくなった時、その男は止まった。

「なんであんたがここにいんのかにゃ〜?」

誘い出される形になったものの、罠などはないと判断したくのいちは、不敵な笑みを貼り付けたままそう切り出した。

「…おぬしか…」

「何しに来たの?返事次第では…」

クナイを構えたくのいちの、どこか物騒な瞳を、じっと見据えながら

「会いに…来た」

いつもの感情が読み取りにくい声で、答える。

「へ?あたしに?」

主語が抜けているので、そう思ったくのいちの素っ頓狂な声に、男は眉一つ動かさず口を開く。

「…もののふに……」

彼がそう呼ぶ人物に心当たりがあったくのいちは、だがそのあまりな組み合わせに絶句した。

それを、どう受け止めたのか、半蔵は今度は丁寧に名を告げた。

「…真田…幸村に…」

「…へぇ…幸村様の首でも取りに来たの?」

有力な敵武将の首を、戦の前に取っておく…有り得ないことではない。

まぁ、総大将の首を狙わないことに、若干の疑問があるのだが。

「会いに来た、と…言っただろう?」

「あんた…会えるような立場だと思ってる?」

これには半蔵も思うところがあったのか、視線を逸らして黙り込んでしまった。

だが、次に顔を上げた時は、力のこもった目でくのいちを見据える。

(誰かに…似てる…?)

その目を見て、くのいちがそう思っていると

「……頼む」

小さく、半蔵は呟いた後、あろうことか深々と頭を下げた。

何かの作戦か!?などと疑う隙もないほどに、くのいちは驚いていた。

そして、急に気付いたのだ。

先程の半蔵の目に、主のいつもの目と通ずるものがあったことに。

気付いてしまったら、後は仕方ない。

「…んじゃ〜行きましょっかぁ?幸村様の陣屋はそう遠くないしぃ〜」

「……かたじけない」

「そういうのよしてよ〜見張りも兼ねてんだからん♪」

茶目っ気たっぷりにくのいちがそう言って振り向いた先には、どこか穏やかな表情の半蔵がいた。





時間も時間だし二人とも腕の立つ忍であるので、誰にも見つからず目的地にまで来れた。

外から小声でかけたくのいちの声に、訝しがる様子を見せながらも幸村は素直に陣幕を捲る。

すぐにくのいちの後ろの存在に気付いた幸村の第一声は、微かに掠れていた。

「…何故…ここに…」

そう言ったきり黙り込んでしまったその行動は、くのいちがいくつか予測していたものどれでもなかった。

一番可能性のあったのは、幸村が「今ここで討ち取らん」とばかりに大暴れする…といったものだったのだが…

「いや…そんなことより…人目についてはまずい…こちらへ…」

普段では有り得ないくらい強張った声で、幸村が陣屋の中へ招き入れると、驚くほどあっさり半蔵はそれに従った。

あまりにも思いがけないことが重なってしまって、半ば呆然としているくのいちに

「…そなたは…どうする?」

陣幕を少し上げた状態の幸村と、視線をよこす半蔵を交互に見た後、くのいちも陣屋の中へ入っていった。





先程から、微かに笑みさえ浮かべた幸村は、目の前の男が敵だと知らないかのような態度をとっていた。

「こんなところまで、何をしに…?」

静かに訊ねる彼は、まるで違う人物のようだ。

だが、その笑みが贋物であることは、くのいちだけでなく半蔵までも分かっている。

「おぬしに、会いに来た」

そして半蔵の答えを聞いた瞬間、いつもの彼に戻った。

「…ッッ!!今更…今更何をっ!!」

声量自体は抑えてはいるものの、そこから溢れ出す感情までは抑え切れなかったようだ。

殺気のこもった目で半蔵を睨み付ける幸村の頬は紅潮し、唇はまだ何か言いたげに戦慄いていた。

「…今だから…こそ」

側にくのいちがいることを思い出したのか、再び幸村は落ち着きを取り戻す。

「今まで…そんなこと、一言も言ってくれなかったではないか…」

ただ、言葉の内容にまで気を回せなかったらしく、その呟きにくのいちが眉を顰めたことにも気付かない。

「今だから、言いたくなった。おぬしに、会いたくなった」

感情の変化こそ見えないが、普段の半蔵の様子から彼がそういう嘘や冗談を平気で言うとは思えなかった。

もっとも、くのいちからすれば、それは大層な愛の言葉であるような気がしてならないのだが。

「それは…本当か…?」

「…おぬしには、もう嘘はつかない」

そう告げる半蔵の目を、射殺しかねない眼差しで見つめていた幸村は、急に肩の力を抜いた。

今度はいつものように微笑んで、まるで旧知の友に話しかけるように口を開く。

「それにしても…そなたにしては思い切ったことを…こちらが夜襲をかけるつもりだったら、今頃捕まっていたやもしれぬぞ?」

「…戦を寸前に控えているにしては…動きが活発でなかった…」

そういった情報戦とも言えるものは、彼の専門分野であろう。

今更な問い掛けをしてしまった幸村は、少しだけ困ったように微笑んだ。

そして事情が何となく読めているような、いないような、複雑な表情をしたくのいちを見ている半蔵に気付く。

一歩間違えば不快にしか感じられないほどの、熱っぽい視線で半蔵を見つめながらにじり寄り、不意に口を開いた。

「くのいちは…下がらせないが…いいか?」

「承知」

そういった目で見つめられることに慣れているのか、その視線を真正面から受け止めたまま半蔵は答えた。

「え?え?い、いいの?」

まるで恋人の逢瀬のような雰囲気になってきたのに、自分がいていいのだろうかと、くのいちはかなり慌てた。

更に二人がはかったかのように、同時に頷いたことにより、ますます彼女の頭の中は混乱したようだ。

「ちょ…あたし、男同士の濡れ場を見るのはちょっと…」

何か凄まじいことを口走った15のおなごに、二人は驚いた顔を見合わせた後、苦笑した。

「明日は合戦ぞ」

たしなめるような半蔵の言葉に

(じゃあ合戦じゃなかったらする気なのか…?)

というくのいちの心の中の突っ込みは、幸か不幸か二人には伝わらない。

「そなたには、私達のことを忘れないでいてほしいのだ」

いつものように真っ直ぐにくのいちの目を見つめる幸村の言葉は、すぐには理解できないものだった。

「おぬしには、生きていてほしい」

敵としてではない半蔵の声は、じんわりとくのいちの中に浸透した。

「あたし…が…?」

そう問い返すと、二人とも静かに頷いた。

きっと二人とも、この合戦で命を落とすことを覚悟している。

「それって…さ…」

その上で、二人を…それこそ二人の関係をひっくるめて、忘れないで欲しいとは。

それはまるで、遺していく世代に、何かを託すかのような行為。

「二人の子供みたいじゃない…?」

言われて初めて気付いた二人は、驚きに目を見開いたが、その後はそれぞれ違った表情を見せた。

「そうか…子供…か…」

くのいちでさえびっくりするほど、締まりのない笑みを浮かべた幸村と、眉間に皺を寄せこめかみを押さえている半蔵。

「この馬鹿の言うことは気にしないでいい」

すっぱりと言い捨てた半蔵に、幸村はちょっと不満顔を向け

「ちなみに私が父親だ」

真剣にくのいちに言い放った男の言わんとすることが分かったのか、半蔵の片頬が引き攣った。

「あ、やっぱり〜」

その辺りの事情は予測していたのか、くのいちは平然と言い放つ。

あまりにも息のあった主従に、半蔵は溜息をつくしかなかった。

そんな半蔵を見ていた幸村は、急に無表情になり

「嫌か?」

また、落ち着き過ぎた声に、二人は訝しげに幸村を見る。

「私を、受け入れていたと…知られたくないか?」

ついぞくのいちが見たことのないような自嘲混じりの笑顔に、半蔵は眉間に深く皺を刻んだまま答える。

「……あまり…好ましくない…」

その答えに少しだけ傷付いたような表情を浮かべた後、幸村がどこか諦めたように鼻で笑った瞬間、半蔵はすかさず呟いた。

「おぬしとの日々に悔いはない。その表情が…だ」

先程の問いを否定する意味合いが込められた答えを、幸村が頭の中で反復していると

「おぬしは…笑っている方が、いい」

そう言いながら手を伸ばし、そっと幸村の頬に触れる。

「おぬしは、笑ってる顔が、一番いい」

それは愛を告げる言葉に近いのだが、いかんせん半蔵は無表情で淡々と言葉をつむいでいく。

だが、半蔵がそう口にしたからには、それが嘘や姦計ではないと、幸村には分かっていた。

だから、その喜びそのままに、笑った。

側で見ていたくのいちでさえも、微笑ましいと思うような光景だった。










今、目の前で自らが闇に葬った命の抜け殻を、幸村は呆然と眺めていた。

不思議と、喪失感はなかった。

斬り倒した感触も、今まで倒してきた兵達と何ら変わりはない。

かといって、勝てたという高揚感もなかった。

あれだけ、文字通り死闘を繰り広げ、勝利をもぎ取ったというのに。

喪失感もないが、何も感じなかった。

…何も感じないことだけを、感じていた。

徐々に敵兵が集まり始めていると、幾多の戦場を駆け抜けてきた勘が告げる。

(急がねば…)

霞み始めた視界の中で、黒く横たわる想い人に、彼はどのような表情を向けていたのだろう。







目の悪い人間がそうするように、幸村は目を細めたりしてどうにか像を結ぼうとしている。

(もう…目も見えぬか…)

それでもなお、自分に向かってくる武士に、心の底から家康は呟いていた。

…日本一の兵。

それは本当の武士が、歴史の舞台から消えることを嘆いているようでもあった。

家康が放った言葉は、不思議なほど幸村の耳に馴染んでいく。

敵の総大将にまで、力を示すことが出来た。

そこにあったのは、純粋なまでの喜びだった。



だから、幸村は笑う。



そして、いつも全て受け入れてくれていた人の、その懐に飛び込んでいくように、たおれこむ。



だから、恐怖は、なかった。







もう全てが霞んでしまった視界の中で、唯一、幸村が思い描けた人がいる。







だから、笑った。