すぐに両家で話はまとまり、婚礼の儀も早々に行われた。

不安定な政の関係もあるが、やはり本人達にとっても早めに式をしておいた方がいいだろうという思いからだ。

花嫁の淑やかさと花婿の凛々しさは、咲き誇る花々よりも人々の目を楽しませた。



それを少し離れた場所から眺めていた幸村の脳裏に、数日前の夜のことが過ぎった。





「…なぁ…幸村…」

「何ですか?兄上…?」

珍しく二人だけで酒を酌み交わしている時、信幸が急に深刻な声で弟の名を呼んだ。

暫く何事か考え込んでいる様子だった信幸は、杯を一息に干した勢いのまま

「…その…お前は……本多殿の娘御を知っているか…?」

「あ…」

政略結婚で不安なのは、何も女性だけではない。

しかも信幸は、仲の良い両親を見て育っているだけに、少し政略結婚についての考え方が一般とは違う。

もちろんそれは幸村も気付いていたことで、兄の悩みが手に取るように分かった。

この度の結婚に不満はないが、どうしても信幸は考えてしまうのだ。

「…幸せに…してやれるだろうか…」

「……分かりません」

今まで見てきた兄の性格と、半蔵から聞いた稲姫の性格からすると、お互い幸せになれそうだが…

それは本人達の判断することで、自分が軽々しく言ってはいけないだろうと、そう幸村は言葉を濁す。

「…本多殿の娘御は…可哀想だな…」

酔っているのだろうかと兄を見た幸村の目には、いつも通りの兄がいた。

ただ、どことなく自嘲を含んだ笑みは幸村の胸を衝いた。

「私が相手では…可哀想だ」

「兄上…」

咎めるような幸村の声など聞こえないかのように、信幸は呟いていた。

「本多殿の娘御ならば…もっと家柄のいい方のところへ嫁げただろうに…」

「…心配しすぎです」

「…そうか…?」

「はい…それに聞いた話によると…稲姫は兄上のことをご存知だそうですよ?」

「何!?」

「随分前になりますが…ほら…徳川殿の部下と一悶着あったでしょう?」

「…ああ…あれか…」

お互い大した被害があったわけではないが、ほんの些細なきっかけで起こった事件。

当然、いい思い出ではない。

「その時、敵陣の中に稲姫が助っ人として…」

「はぁ!?女性が!?」

実は敵本陣にかなり肉薄していた信幸は、必死で記憶を辿る。

だが、女性を見た記憶はなく、男しか思い出せなかった。

「稲姫は男顔負けなくらい、お強いそうです」

「そ、そうか…」

それまで信幸の頭の中には薄幸な美女が描かれていたが、そのイメージを消すことにした。

「で、では……その…本多殿に…よく似てらっしゃる…とか…?」

代わりに出てきたイメージは、やはり猛将の娘に相応しい雄々しい女性。

簡単に言うなら劇画調。

「ぶっ…」

容易に思い描けてしまった幸村は思わず吹き出す。

しかし、兄は真剣だ。

「そうか…そうか…」

彼の中で、稲姫のイメージが固まってしまったようだ。

流石にそこまで逞しくはないと話に聞いていたので、訂正しようとした幸村だが、それより早く信幸は呟いた。

「ならば…子供は本多殿のような武士になるだろうな…」

何かが吹っ切れたのか少し嬉しそうに微笑む兄に、幸村もつい嬉しくなって微笑んだ。

「大切にせねばな…」

「ええ…あ、そうだ。兄上…稲姫は…」

酒を注ぐ手を止めた兄が、顔を上げるのを待ってから幸村は告げた。

「とても、綺麗に微笑む方です」

それは半蔵が話していた稲姫の印象だったが、時々話題に上る彼女はその通りだと思っていた。

はっきりと言い切った幸村に首を傾げていた信幸だが、すぐに何かに気付いたらしい。

納得したらしく頷くとやや照れ臭そうに、いつものように柔らかく笑う。

そしてつられるように笑みを見せた弟の杯に酒を注いだ。







数日前の不安が嘘だったかのように、初めて見る花嫁に対して信幸は堂々と振る舞っていた。

ただし、その美貌を見た瞬間、かなり驚いた表情はしていたが。

知らず知らずのうちに、幸村は笑みを深めていた。



それを少し離れた場所から眺めていた半蔵の脳裏に、数日前の夜のことが過ぎった。





「半蔵様…」

「稲姫…」

数日前から一応、上田城近くの屋敷に滞在していた稲姫が、同じ屋敷に控えていた半蔵を訪れたのはもう夜半だった。

もしもの時の為に、半蔵に宛てがわれた部屋と、稲姫の部屋はそう離れていなかった。

特に警護する必要もないだろうと、そろそろ休もうとしていた半蔵は、廊下からの声にすぐに居住まいを正す。

「あの…」

「……入られよ」

嫁入り前の娘を部屋に招き入れることに多少抵抗もあったが、彼女の声にいつもはないはずの翳りがあったのが気になった。

「…すみません」

いつものように機敏な動きではなく、どこか億劫に部屋に入る稲姫に、半蔵は心なしか眉根を寄せる。

それに気付かない稲姫は既に敷かれた床を見て、半蔵がもう寝ようとしていたことに気付いたようだ。

「あ…本当にこんな夜分に…」

手を付いて頭を下げる稲姫は、どこから見ても弓を持つようには見えない。

「…花嫁修業は…されたのか…?」

武家の女性なら当然の所作がどことなくぎこちなかった稲姫だが、久しぶりに見る彼女はまさに武家の女性だった。

真田家との婚姻を結ぶ為に半蔵がここへやって来てから、かなりの時間が経っている。

暫く見ないうちに、稲姫の動作が武士のそれから女性のそれへと変わっていた。

「あ、はい…少し…」

こんな非常識な時間にやってきても、話を聞く態度を見せた半蔵に稲姫は微かに目を見開く。

だが、すぐに苦笑いを浮かべる彼女の表情からすると、かなり大変だったのかもしれない。

本多忠勝の自慢の娘が、女性らしく振る舞う術を身に付ける。

本当なら喜ばしいことだろうに、半蔵はそれを少し残念だと思ってしまっていた。

「そうか…」

それだけ呟いて半蔵が僅かに目を伏せると、はっきりとものを言う彼女にしては珍しく少しおどおどと口を開く。

「あの…このようなこと伺うのは失礼かもしれませんが…」

首を軽く傾げて先を促すように半蔵が視線を向けると

「…信幸様は…どのようなお方ですか…?」

確かにまだ見ぬ相手に嫁ぐというのは、とても不安だろう。

だが半蔵はふと疑問を抱いた。

ほんの少し前、真田所縁の領主と徳川方の部下のいざこざがあった時、稲姫もその場にいたはず。

そしてその時、猛然と見事な采配で自分達を翻弄していたのは、件の青年。

「…以前…姿はご覧になったかと…」

「そ、そうですが…」

一瞬で頬を赤く染めた彼女は、当時敵陣にいた信幸に対して悪い感情は持っていなかったようだ。

やはり年頃の娘。

見目麗しい勇将を目にして、何も思わないはずはない。

「その…実際にお会いしたこともないですし…」

そこで漸く半蔵は気付いたらしい。

彼女が知りたいのは、信幸の人間性だと。

「それは、ご自身の目で確かめられよ」

だが、半蔵はそれだけしか言わなかった。

彼は普段の仕事柄、曖昧な情報や私見が入った情報などは口にしない。

「…あ…はい」

だが素直に頷いた後、叱られた子供のように俯いてしまった稲姫が、さすがに不憫になったらしく

「ただ…」

稲姫が顔を上げるのを待ってから、半蔵は続きを口にした。

「とても、柔らかく笑う方です」

以前、幸村が自分の兄について語っていた言葉を、そっくりそのまま半蔵は口にした。

それは半蔵自身も納得していたので、そう述べただけだが、それは稲姫にとって救いになったようだ。

一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた後、いつものように綺麗に微笑んだ。

そして深々と頭を下げると、来る時とは正反対に足取りも軽く去っていった。







あの言葉は本当に彼女の救いになったようで、時折向ける花婿への視線には愛しさすら感じられる。

そしてまた、しばしば彼女へ向けられる花婿の視線にも柔らかな感情が溢れていた。

(…これなら)

そう半蔵が安心した時、二人の視線が合い照れ臭そうに微笑みあう。

(何の問題もなさそうだ)

ようやく一仕事終えた心持ちの半蔵は、ふとここの所幸村と話をしていないことに気付いた。