いつの間にか、半蔵の行動範囲は広がっていたが、屋敷の人間はあまり気にしなくなったようだ。

徳川との関係が友好的であることもそうだが、何より幸村がしきりに気にかけていれば、外野がとやかく言うわけにもいくまい。

苦い顔をしていた昌幸だが、彼もまたそれに関して何かを言うわけではなかった。

荒を探そうとしても、そうそう簡単に手の内を見せるような相手ではない。

もっとも、二人の関係を知ってしまえば、いくら彼でも手を打たなければいけないだろうが。

幸か不幸か、あのくのいちにさえ、勘付かれていないようだ。



走るのとあまり変わらない速度で歩いていた半蔵の後ろを、小走りの幸村が追いかけていた。

皆が関わり合いになりたくないという気持ちでいる為か、二人しかその廊下を使用していない。

しかし遂に痺れを切らしたのか、幸村が走り寄って半蔵の肩を掴む。

「はーんーぞー…」

それは小さな童が見れば、確実に泣き出すような表情だった。

その表情に恐れをなしたわけではないだろうが、漸く半蔵の足が止まる。

「……仕方あるまい…?」

「だからといって…何故教えてくれなかったのだ…」

不貞腐れている幸村が言っているのは、もうすぐ半蔵が戻っていくということ。

それを今朝、昌幸の口から聞いた幸村は、すぐに半蔵に理由を問い質すべく追いかけていたというわけだ。

「そのうち分かるであろう?」

「だが、私はそなたの口から聞…」

いつまでも子供のように駄々を捏ねている自分が、急に恥ずかしくなったらしい。

口を閉ざすと、一つ咳払いをして

「では、最後に手合わせ願う」

「…よかろう」

その程度で幸村の機嫌が直るなら安いものだとでも思ったのか、素直に半蔵は頷いていた。



暫く会えないという状況からか、二人とも負けたくないという気持ちが前面に出ていた。

勝ち逃げしたい半蔵と、それをさせまいとする幸村。

二人とも根本は武士であるせいか、引くことを良しとしない。

それが仇となったのか、半蔵の槍先がふとした拍子に幸村の額を切り裂いた。

「もののふ!?」

それは半蔵も思いも寄らなかったことらしく、忍らしくなく慌てている。

槍を投げ捨てて、体勢を崩した幸村に駆け寄る。

額に感じた熱よりも、目の前の表情こそが心臓を引き絞るような痛みを幸村に与えた。

自分が死んだ時も、このような表情をしてくれるのだろうかと…

埒もないことばかり、考えていた。

やがて血が目に入ってきた為、苦笑しながら目を閉じた。





「もののふ…」

「そう怒るな。大事無かったのだ…」

言い訳じみたことを言いながらその実、幸村の背には冷や汗が流れ続けている。

なにせ、今まで見たことがないほどの怒りようだ。

「痕は…残る…」

「私は一向に構わんぞ?」

その言葉通り、布の巻かれた額に触れる幸村の表情は、どこか嬉しそうだ。

「だから半蔵が気にすることはない」

「…しかし…このような他愛のない事で顔に傷を…」

「私の体に、半蔵の残した傷がある…嫌なわけがあるか」

はっきりとそう言われてしまえば、これ以上半蔵も強く言えるわけがない。

「ただ、忘れないでくれ」

「忘れられるわけが…」

「そうではない」

額に触れていた手を、傍らで正座していた半蔵の肩に移し

「私と共に過ごした時があったことを、忘れないでくれ」

どこか無邪気な様子と肩に感じる温もりに、少し躊躇いがちの半蔵は頷いた。





そのまま幸村に怪我をさせた事に関してのお咎めはなしのまま、半蔵は戻っていくことになった。

見送りは半蔵が強く辞退した為、やけに押しの強い幸村だけがいた。

それについては一言も言わないまま、馬に乗ろうとした半蔵は漸く振り返り

「稲姫のこと…頼むぞ…」

「勿論」

真摯な眼差しで幸村に告げた半蔵へ、同じように真剣な眼差しで返す。

そして、少し照れ臭そうに笑って

「また来てくれ」

私の元へ。

「…おぬしが来い」

冗談で言った半蔵の言葉に、普段はあまり見せないような不適な笑みで幸村は答えた。

「それもいいな」

驚いたように目を見開いた半蔵だが、直ぐに困ったように笑うと

「では…またな…」

「…ああ…」

去っていく馬上の半蔵の背を、その姿が見えなくなるまで幸村は見つめ続ける。







彼のことはほぼ全て知り尽くしたと思っていた。

子供の頃のこと、槍仕事で挙げた勲功のこと、好きな食べ物、顔の傷の理由、誇りに思っていること…

怒った時の無表情や、他の人間が見たことないような笑みや、閨の中での表情でさえ…

幸村は、全て知り尽くしたと思っていた。





だが、不意に最後に見た笑みに、言い知れぬ不安を抱いた。