暑さもいくらかやわらぎ蝉の鳴き声も哀愁を誘うようになった頃、半蔵は屋敷の縁に正座し、じっと庭を眺めていた。

夕闇に染まる景色が、彼にしては珍しいことだが気の滅入るものに見える。

普段なら仕事に向かう時のように、気分が高揚してくるのだが、今日はどうにも気分が重い。

いや、ここ数日このような状況だ。

更に珍しいことに半蔵のその薄い唇から、微かな溜息が漏れた。

そして、ふと見遣った先に名も知らぬ赤い花が一輪だけ咲き誇っており、半蔵の目は見開かれることとなる。

脳裏を過ぎったのは、あの男。





それがどんな時期だったかは覚えていない。

ただ、やけに真剣な表情を浮かべた幸村が半蔵のもとを訪れたのは、日も落ちかけた頃だった。

「忍とは…」

暫しずっと黙り込んでいた幸村は、何かに取り付かれたような表情で呟くと、また暫く黙ってしまった後

「返り血を浴びぬものなのか?」

などと真意の読めない問い掛けを放つ。

その時の幸村の感情の揺れは、いかな半蔵といえども容易に理解できるはずもなく、ただ質問にだけは答えようと口を開いた。

「…いかにも」

迂闊に返り血を浴びてしまえば、その臭いで追跡されてしまうかもしれない。

自分の怪我も同様に気をつけなければならない。

だから普段の仕事は、余程のことがない限り返り血は浴びない。

「やはり…くのいちの言ったことは本当か…」

情報源はあの少女だということが少し意外で、幸村の声に含まれた暗さに半蔵は気付けなかった。

自らの歩んだ忍の道と、彼女の道はやはり同じだということが感傷を生んだのかもしれない。

「返り血を浴びぬように飛び退くのか?」

「…そもそも返り血を浴びるような攻撃はせぬ」

夜陰に紛れての襲撃や、背後からの急襲を主にすることで臭いのないまま仕事を終わらせる。

かと思えば人間の喉を掻き切った刃物を潜ませたまま、往来を闊歩することもままある。

それが、彼らの仕事。

それを通常の武士の常識に当てはめてしまえば、半蔵達は存在すら許されなくなる。

「私は…派手に槍を振るいすぎだろうか?」

「…そうでもない。敵を倒している、的確に」

出来れば戦場で遭遇したくないほどに。

「無駄な動きは多くないか?」

「若いうちはそんなものだ。年を経れば自然と纏まる」

そうは言う半蔵もまだ若く、己の未熟さを知っている。

「…私は…若いか?」

「ああ。若い。その若さだけで敵を威嚇することもできる」

「…半蔵は?」

「忍に年はない」

場合によっては年齢だけではなく、体型も性も習慣もいくらでも偽る。

半蔵がそう話し始めれば興味を持ったらしく、いつものように感情を素直に表す幸村に戻っていた。

今思えば、幸村は幸村なりに半蔵の業を理解したかったのかもしれない。

理屈など抜きに、それこそ無意識のうちに。







(そんな…こともあった…か…)

過去を懐かしむ時、着流し姿が妙に様になっている幸村の笑顔を思い出す。

それと同時に思い浮かぶのは、赤い縅の色も鮮やかな若武者姿。

次に会う時、たとえ敵味方に分かれてしまっていても、その鮮烈な姿を見たい。

だが彼の纏う赤が、あの時幸村が口にした『返り血』というものかもしれないと思った瞬間…

「───っ!?」

何故か半蔵の脳裏に、血塗れになりながらも笑う幸村の姿が、思い浮かんだ。



そしてそれは恐らく、近いうちに訪れるであろう光景。

誰が勝っても負けても、幸村は血に濡れる覚悟がある。

ただ敵を屠り続けるか、己が命を燃やし尽くすか、二つに、一つ。

それを思うと、半蔵は自らの覚悟が揺らぐのを感じた。



返り血に、濡れぬ自信は、ない。



秋の涼やかな風が、僅かに汗ばんだ半蔵の肌を撫でていった。