土の中で生活する虫達ならまだしも、キリーのように地上生活をする虫にとって地下の闇は不気味すぎる。
天然の牢獄へ、英雄としての仕事の一環で、罪人の様子を見に来た。
もともと戦士タイプの少ない蟲人は、それに比例するかのように凶悪犯罪は起こらない。
だから罪人と言っても、今は数人しか収容していないらしい。
その内で最も刑期の長い人物に会いに来た。
現昆王がまだ王でなかった時に、その一族を罠にかけたらしい。
彼は蜘蛛だそうだ。
「昆王候補の暗殺…ねぇ…」
話が大きくなりすぎている気もするが、もともと蜘蛛は敬遠されがちだ。
ましてや、巣を張ってはいけないとされる場所に、堂々と巣を張った不届き者らしい。
自分も肉食の蟲である為、割と敬遠されがちなせいか、どうしてもその蜘蛛に同情の念が沸いた。
ある程度、歩いたところで案内役の蟻が軽く会釈をして去っていく。
目的地に着いたことに気付き、目の前の格子の向こう側の闇を見据える。
誰かがいる気配など微塵もないことを不審に思い、とりあえず声を掛けてみることにした。
「どーも」
すると、微かな衣擦れの音をさせて、格子の向こうの光が届くぎりぎりの距離に男性が現れる。
黒い眼と黒く長い髪は、彼が黒い蜘蛛であることを示し、少しやつれ気味の白い面はどこか理知的だった。
「ああ…君が英雄の…キリー君?」
「あ、ああ…」
思ったよりも丁寧な言葉遣いに、柔らかな笑み。
こんなじめじめした牢獄生活で、ここまで更生したとも考えにくい。
ということは、もしかしたら彼はもともとこういう人物なのかもしれない。
「キリー君?」
穏やかな声音に問い掛けられて、ようやく意識を戻す。
「悪ぃ…ちょっと考え事…」
「気にしなくていいよ。こんな暗いところだとぼんやりしちゃうよね」
微かな笑いを含んだ声は、耳に心地よく響く。
だからどうしてもキリーは納得いかない。
「あんたほどの人が…なんで昆王様の暗殺を…?」
「…暗殺…?ああ、そういうことか」
一瞬だけ訝しげな表情を浮かべた青年は、話が大きくなってしまっていることに気付き苦笑を浮かべた。
「…別に昆王様を捕まえようとは思っていなかったんだよ」
彼はこの事件に関して、今まで沈黙を守っていたという噂だ。
自分にその真実を話そうとしている気配に、キリーは少しだけ緊張していた。
「昆王様じゃなく…その娘のアゲハさんを、ただ一度でも、側で見たかったんだ」
だから、禁止されていた区画にも拘らず、巣を張ってしまった。
そこは、彼らのような翅のある虫達が、必ず通る場所だったから。
無論、彼らはそこに蜘蛛の巣が張られるわけはないと思っているから、容易く引っかかった。
「…本当に…美しかった…」
流石に手を触れるのは憚ったが、泣き喚く他の虫達を先に解放し、最後まで拘束していた。
ただ一つの誤算は、彼女は戦士の力を持っていたこと。
気付いた時には自力で抜け出していただけでなく、戦闘体勢に入っていた。
驚いた自分は、蜘蛛でありながらさほど強いわけでもなく、容易く捕えられた。
それにもともと逃げる気はなく、最初から命がけだったので大した後悔もない。
「好きな人の全てを…それこそ食べてしまいたいほど、欲しいと思ったことは?」
「そりゃ…同じ肉食だし…まぁ…分からないでもないけど…」
それでも自分は、ぷるるに対してそんな感情を抱いたことはない。
ただ、ひたすら愛しくて…ただ、ひたすら守りたいだけ。
「…そうか。蟷螂は理性的なんだね」
嫌味でも何でもなく、蜘蛛は穏やかに微笑んでいる。
そう言う彼の方が、よほど理性的だ。
思わずその笑顔を見つめていると、彼は今度はちょっとバツが悪そうに笑った。
「ああ…ごめんね。人と話すのは久しぶりで…長話になってしまったかな…」
「そんなことねぇって」
「でも、それもそろそろ終わりだね…」
いつまでも黙秘を続ける彼に痺れを切らしたらしく、多くの者が彼の処分を昆王に進言している。
ことの真偽をはっきりさせる為に、今回キリーがやって来たのだ。
外の世界の情報が一切入ってこないはずなのに、彼はそれに気付いている素振りがある。
そして、黙って処分を受け入れようとしている姿勢を見せた。
「あんた…まさか…」
キリーが何かを口にするより先に、蜘蛛は微かに笑みを浮かべて呟いた。
「蜘蛛は蝶に恋をしてはいけなかったんだ」
牢に入ってはっきりと気付いてしまった。
気付いてしまっても、忘れられようはずもなく。
「そんなことない!!してはいけない恋なんてないだろ!?」
それは、彼自身に向けての言葉だったのかもしれない。
同じように蝶に恋してしまった蟷螂。
「ぜってぇ…ぜってぇここから出してやるから…!!」
「…そう…ありがとう、キリー君」
それでも蜘蛛は、にこりと笑んだ。
例え彼にそれが可能でも、自分が不可能に変えることを知っていながら。
数日後、キリーが言っていた通りに、蜘蛛のもとへ通達が来た。
「…釈、放…?」
恐らく彼は必死に訴えてくれたのだろう。
それをありがたく思うけれど…
これ以上、貴女を想い続けるのは辛いから。
「はっ…昆王も耄碌したか」
「何っ!?」
伝令の男(恐らくこの男は百足族のエリートだ)が顔色を変える。
きっと、こんなにも人を狂おしく想ったことはないのだろうね。
「老いぼれ爺に伝えろ」
そんなことを思いながら、ゆっくりと口を開いた。
「『ここから出たら、真っ先に貴様の娘を食い殺す』と」
もう、これ以上、想い続けるだけの生活に、耐えられません。
だから、いっそのこと、殺して下さい。
そして、出来れば、忘れられないくらい、憎んで下さい。
貴女のことを愛しているうちに。
貴女のことを忘れないうちに。
どうか…どうか…
冷酷な同情など、いらないから。
想いと共に、眠らせて。
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