いつもの椅子に腰掛け、エドの持ってきた報告書を眺めながらロイは口を開いた。

「人は生まれる時、泣く」

「またその話かよ…」

報告書を持って来たのはいいが、ロイがなかなか報告書を見なかった為、エドは執務室で足止めを食っていた。

執務室に置かれているソファに座り、がっくりとうなだれている。

「今度はきちんと話そうと思う」

報告書そっちのけで真剣にエドを見つめるロイの顔を、エドは先を促すように黙って見つめる。

その視線を受けてロイは口を開いた。

「人は生まれる時、泣く。何故だと思う?」

「呼吸をする為だろ?」

にべもなく言い放つエドに、ロイは苦笑して頷く。

「まさか…生まれるのが嫌だから泣く…なんて情緒あふれることは…言わない…よな?」

この男にはあまり似つかわしくないと思っているのか、そう訊ねるエドの声は否定を求めている。

「そうだな…そういう考えもあるかもしれないな…」

はっきりと否定はしないが、積極的に肯定もしない様子にエドはやや安堵の溜息をついた。

「まあ…これは…私の勝手な思い込みなのかもしれないのだがね…」

そこまで言ってロイは口をつぐむ。

「いいぜ。話せよ」

どこまでいっても尊大な態度のエドに、迷いを払拭されロイは微笑んだ。

「では話させてもらおうか…後で君の意見も聞きたいものだが…?」

「意見が言えるような内容だったら言うから…話せば?」

エドはロイの慎重すぎる物言いに、段々痺れを切らしてきたようだ。

逃げられては困ると、今度こそロイは切り出した。

「生まれる時に泣くのは周知の事実。だが、死ぬ時にも人は何かを言うのではないかな?」

エドの眉間に微かに皺が寄る。

「…なんで?」

どうしてそう思うわけ?

「そうだな…実際に言われたから…だな。『助けてくれ』『殺さないでくれ』『見逃してくれ』『子供だけは…」

「もう、いい…」

エドは無表情で話すロイを止める。

そして、ひどく不機嫌そうな表情を浮かべ、言い含めるように告げる。

「それはあんたの場合だけだ」

ロイは首を傾げた後、自嘲気味に笑った。

「そうでもないと思うのだが?」

軍に属する人間、とりわけこの二人の持つ資格を有する人間。

そういった人間は、自らの死に近しいところにいるが、それと同時に他人の死にも近しい。

それらの意味を瞬時に悟ったエドの眉間に、皺が刻まれる。

「だが……俺は知らねぇ…」

幼い頃の罪の産物が『人』であり、息絶えた瞬間が『死』であるなら…

確かに知っていると言えるのかもしれない。

「…君の母上は…何も伝えようとしなかったのかい?」

何かを訴えるように伸ばされた手…

エドは緩く頭を振ってその映像を追い払う。

「アルと…仲良く…って…」

そして、最期まで優しかった母の笑顔を思い浮かべる。

「そう…か」

ロイはそう呟いて、革張りの椅子から立ち上がりエドの座るソファに近付く。

「とにかく…人は死ぬ時、何かを伝えようとするものだと思うのだが?」

見下ろされ不機嫌な表情を浮かべたエドは、そっぽを向きつつ肯定した。

「まぁ…全くないとは言い切れないのかもな…」

不意に武人にしては繊細さを残すロイの手が、まだ少年特有の丸みを帯びた頬に触れる。

「君は…何を伝えてくれるのかな?」

その手から煩わしそうにエドは逃れようとする。

「とても…興味深いのだけれど…ね?」

そう言ったかと思うと、逃れようとするエドの喉仏がまだあまり目立たない喉に手を伸ばす。

「んなの…俺は興味ねぇよ」

ロイの手が軽く喉を掴むように力を入れると、エドはその冷たさに渋面を浮かべた。

「試してみても?」

「いいわけないだろ…」

冷たいんだから放せよ。

吐息と共に告げられた言葉にも、ロイの手は離れることはなかった。

呆れ返ったような表情を浮かべたエドに、ロイは微笑みかけると

「成し遂げなければならないことがある?」

そう訊ねながら、喉に伸ばした手をそのままにエドの隣に腰を下ろす。

「そう」

わかってんじゃねぇか。

そう言いたげに眉を顰めるエドとは対照的に、ロイはいっそ爽やかなくらいの笑顔を浮かべる。

「それが終わったら…どうだい?」

「はぁ?」

「私に殺されてくれるかい?」

「嫌に決まってんだろ」

即答したエドに、わざとらしく片眉をあげると

「ならば……最期の瞬間に立ち合わせてくれるかい?」

「そんなの…いつか分からねぇじゃん…」

不慮の事故、病気…人の死ぬ様々な原因は、いつだって待ってはくれない。

「だから…それまで側にいれば確実だろう?」

「側に…?」

「そう。人は死ぬ時にも、何かを告げると思う」

エドはどういった顔をすればいいか分からず、複雑な表情を浮かべる。

「だから…君の死に目に会わせて欲しい」

「…やだよ…」

「嫌だと言われても…君の死に目に会えるように、側にいたい」

「なんで…そんなに…?」

何でそんなに俺にこだわる?

「大事な人の最期の言葉は聞きたいものだろう?」

「は?」

「つまりはそういうことだよ」

君を最期に見送ることを許してほしい。

誰よりも大事な君だから。

君は何を伝えてくれるだろうか。

私のことをどう思ってくれているのだろうか。

だがいつ死ぬか分からない。

だからその為には、君の側にいる。

いつ死んでもいいように。

つまりは…

「結婚してくれ」

「ヤダ」

あまりにも早すぎる答えに、ロイは見ているのも哀れなくらい肩を落とす。

普段とのギャップがありすぎて、エドは妙な罪悪感を覚え慌てて取り繕う。

「でもまぁ側にいるだけなら…別に…」

エドの答えに、ロイの顔に明るさが戻ってくる。

常にないほど分かりやすい男に、エドも満更悪い気はしていないようだ。

「でも…結婚なんかできないぞ?」

「何故?」

「何故って…」

この男は遂におかしくなってしまったのだろうか?

エドが胡乱げな眼差しとともに説明をしようと口を開くが、ロイは笑いながらそれを遮った。

「はは…困らせてすまなかった。分かってるさ。結婚は、できない」

笑っているのにどこか寂しそうなロイから目を逸らし

「まあ…そんな契約に縛らなくても…側にいてやるよ」

そうエドが呟くと、ロイの顔から表情が急に消えた。

そんな顔を初めて見たエドは、不安からくる恐怖と微かな寂しさを抱いた。

「たい…」

普段のロイを呼び戻そうと口を開くが、喉もとから移動してきた掌に塞がれる。

「本当に?」

大して力の入れられていない手を退けることもせずに、エドは瞳を閉じて頷いた。

「本当に?」

どこか戸惑ったような表情で、先程と同じ言葉を繰り返すロイに

「もちろん条件付きだ」

口元の掌を左手で離させ、エドは言い切る。

「一つ。俺達が…もとに戻ること」

エドは微かな音をさせ、機械鎧の人差し指を立てる。

「二つ。あんたが大総統になること」

今度は中指も。

「三つ。…あんたが…幸せになること」

今度は薬指。

「側にいる。だが、あんたが幸せになる為に、他の誰かの側にいることを望んだら…」

「そんなことはない。君だけだ」

「…俺は、消えるから」

ロイの言葉を聞かずに、エドは言い切る。

居た堪れなくなったロイは、渾身の力でエドを抱き締める。

「消えないでくれ」

言葉通りに込められる力に、エドは苦笑した。

「その時は、その時だ」

「浮気などしない」

急に体を離し、妙に真剣な表情でロイはエドを見つめる。

「いや…浮気とかってレベルじゃなくて…」

いつもなら考えられないほど近くにあるロイの顔に、エドは苦笑しながら呟く。

「もう…君のことしか…」

ロイはそれ以上は言わず、再びエドをかき抱く。

それ以上のことを言わなかったが、その気持ちは痛いくらいにエドに伝わった。

「…一応…信じるから」

エドはそう言うと、ロイの背に腕を伸ばした。

「それに…大佐の方が先に死んだりして…」

「…年から考えるとその可能性が高いな…ではその時は、私の最期の言葉を…聞いてくれるかい?」

また強くなった腕の力に、エドは微笑み答える。

「大佐が先に死ぬならな」

「ありがとう」

ロイが笑ったのが、密着した肌からエドにも伝わった。

それがやけに恥ずかしくて、エドは憎まれ口を叩く。

「俺が先に死ぬ場合はさ…多分、大佐にとってあまり嬉しくないことを言うかも…」

「構わない」



君の…言葉なら。



耳元で囁かれた声は、ひどく掠れていた。







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