目の前に、普段では決して見えないほど近くに、人の顔がある。
黒い髪が近付いてくる。
少し長めのそれは、彼の目はもとより自分の目に入ってしまいそうだ。
それでも目を閉じなかったのは、黒い髪が光を浴びて虹のような輝きを見せるから。
思わずじっと見つめる。
不意に高い所――いつもよりは低いが――から声が降ってくる。
「鋼の」
彼しか呼ばない呼び方に、視線を少しだけ下げる。
そこには見慣れない柔らかな苦笑をたたえた美丈夫。
「私としては、目は閉じていてほしかったのだが?」
からかうような口調の中に、懇願めいた響きを感じ取った。
だがそんなことに構っていられないのだ。
今、自分はまさに唇(しかもファーストキス)を奪われたのだから。
男の視線の意味に気付いてはいたが、よもや行動に移すとは予想外だった。
「あんた…大人なんだろ?」
予想外のことだったが、思った以上に冷静な自分に驚いた。
「…君よりはね」
怒鳴られるくらいの覚悟はしていたのか、相手も驚いたような表情を一瞬浮かべた。
「だったら責任とれ」
「…いいだろう」
「あんたなりの責任っての見せてもらうからな」
「期待していてくれたまえ」
自信満々に笑った顔も、やはり見惚れるほどだった。
「………で、何で俺なんすか?」
「ハボック…お前ならどうする?」
「無視っすか…」
「早く答えろ。私は忙しい」
(なんつー横柄な…俺も忙しいってのに…)
苦々しい思いでハボックがため息をついていると
「もう一度言ってほしいのか?相手の許可も得ずに触…」
「いいっす!もういいっすから!」
「む…そうか…で?どうだ?」
「どう…って…やっぱり謝るべきだと…」
とりあえず当たり障りのない、それでいて至極真っ当な意見を言う。
「馬鹿が」
それに返ってきたのは、言葉通りに馬鹿にしきった表情。
「なっ…!!」
さすがにこれにはカチンときたのか、ハボックが文句を言おうとした。
が、それより早くロイは言葉を発する。
「謝ったらそれで終わりだろう?次のステップに進めるようなことくらいは考えられんのか」
まさに開いた口が塞がらない。
そんな状態のハボックを全く気にするでもなく
「いや…待て。お前にそこまで求めるのは酷だな。せめて現状維持だ。現状を維持できるだけの意見でもいいだろう」
「仕事戻っていいっすか…」
「待て」
立ち上がりかけるハボックの腕を掴むロイの目は…
(本気だ)
常にないほど本気のロイに、ハボックは負けた。
「まあセクハラって言われなかっただけいいんじゃないっすか」
「セ、セクハラ!?」
「…言われなかったんすよね?」
「あ…ああ」
「望みあり…なんじゃないっすか?」
「そ、そうか?」
(あ〜あ…ニヤケちまって…)
締まりのない笑みを浮かべる上司に、ここ最近タバコの本数が増えた部下は盛大な溜息をついた。
後日、職場にてその少年と出会ってしまったハボックは、ぎくしゃくとした態度が隠せなかった。
かといって、上司からあんな話を聞いてしまった後で、意識するなと言う方が無理だろう。
「あ〜…その…大佐のことなんだが…」
思い切ってそう切り出したハボックに対し
「ああ…そのこと?」
多分、今でも悩みに悩んでいるロイの気も知らず、本人は意外にもあっさりしたものだ。
「悪気があったとかじゃなくて…」
「大丈夫だって…何となく気付いてたし…」
いつものように明るい笑みではなかったが、微かに微笑んだエドはそう言った後
「それに、嫌じゃなかった」
囁くようなその声はハボックの耳にも入ったらしく、驚いた表情を隠せていない。
それを見て、ようやくエドはいつものように笑った。
そう、嫌ではなかったのだ。
だから、どうしても…