初めは偶然だった。





「…お待ち下され…もしやそなた…半蔵殿ではござらぬか…?」

急に掛けられた声に驚いた素振りを見せた薬売りの男は、すぐに愛想のいい笑みを浮かべ

「…いえ?人違いでございましょう」

そう言って一礼して去ろうとしたが、声を掛けてきた若者は、やけにしつこかった。

「いや…その声、その目……半蔵だろう?」

戦場と同じ眼差しで見つめる若者───幸村に、にこにこと笑っていた男の表情が途端に消えた。

「……何故分かった」

相手がそうだと確信している以上、言い訳は通用しないものだ。

薬売りの男…の格好をした半蔵は、直ぐに目の前の幸村に対し警戒する素振りを見せた。

顔の傷が見事に隠されていても、視線だけで相手を震え上がらせることが出来る半蔵である。

その男に、やや低い位置から睨み付けられても、幸村は全く動じなかった。

それどころか、先程の真剣な表情が完全に消え、敵であるあの半蔵に爽やかな笑みを向けている。

「まあ待て。ここで会ったのも何かの縁だ」

どんな縁だ、腐れ縁以外になにがある、などと半蔵が表情を変えずに思っていると

「だ、団子の美味い茶店があるのだが…」

ますます脈絡のない話をする幸村を、何もそこまで冷たくしなくともいいだろうに、半蔵は冷ややかに睨む。

「………で?」

そんな半蔵の視線など気付いていないのか、相手が話を聞く素振りを見せただけで、幸村の笑みが深くなった。

「その…一緒に行かぬか?」

ここで「行くわけないだろう」と答えるのは簡単で、むしろそれが当然の間柄。

当然の答えを返してもつまらないと、半蔵にしては珍しく悪戯心を出してみた。

「………何故…?」

まあそれが運の尽きだったわけだが。

「そ、そなたと…一時の……逢瀬を楽しみたいと…」

「………滅」

「まままま待てっ!!団子が嫌なら別のものでもっっ…!!」

「殺」

そんなこんなで数刻。

気が付けば半蔵は道端に座り込んで、同じように隣で座り込んでいる男の頭を撫でてやっていた。

(拙者としたことが…)







あれからしつこく誘い続ける幸村に対し、普通の人間なら泣いて逃げたくなるような凶悪な顔で、半蔵は受け答えを繰り返した。

もともと武芸一筋といった幸村に、豊富な語彙があろうはずもなく、徐々に言葉に詰まり始める。

「なっ…何もそこまで拒まずとも…」

すると、流石の剛の者も挫けそうになったらしく、眉をハの字にして情けない表情を浮かべる。

もっとも、今にも射殺されそうな半蔵の視線のせいではなく、拒絶の態度を頑なに崩さない半蔵に対してのようだが。

切れ長の幸村の目が潤み始めたことに気付いて、半蔵がぎょっとしているのも束の間。

本当に泣き始めそうになった幸村と連れない態度の半蔵を、いつの間にか野次馬が取り囲んでいたらしい。

これだけの人間が集まっていることに気付けなかったこともさることながら、野次馬の中から

「あ〜あ…あの男、泣きそうじゃないか…」

「何だか酷くないか…?」

「あそこまで邪険にしなくとも…」

「お?喧嘩か?」

などなど…半蔵からしてみれば不本意この上ない声が、多数聞こえてきた。

しかも、中には「あれって上田城の…」など、幸村の正体に気付いた者も出始めたようだ。

半蔵としては仕事柄、普段から目立つのは好ましくないが、今は敵になりうる国の調査をしている。

そう、実は隠密の仕事の真っ最中。

隠密とは字の如く、隠れて密かに活動する者のことである。

だから、別に薬売りでもないのにそれらしい格好をして、実際に営業スマイルを浮かべつつ薬を売ったりしているのだ。

こんなに悪目立ちするのは、かなりまずい…というより、忍としてあってはならないことだ。

目の前で泣くのを必死に堪えている、子供のような図体のでかい男に、半蔵にしては柔らかい声で

「場所を変えるぞ」

そう言って、とりあえず野次馬から離れようとするが、全く動こうとする気配がない。

あまつさえ、半蔵をして「貴様は駄々っ子か!」と言わしめるほど、不貞腐れた表情で言い放つ。

「嫌だ」

「……貴様」

その瞬間、殺気がみなぎったことに野次馬の方でも気付いたらしく、やや野次馬の輪が広がる。

それでも完全に離れていかないのは、よほどこの二人のやりとりが気になる証拠だろう。

かたや身なりこそ町人のようだが、武芸を嗜む者独特の凛とした空気を纏う若者。

かたや薬売りの格好をしてはいるが、薬は薬でも毒薬を得意としているように見える旅人。

ただしべそをかいている者と、必要以上に剣呑な者の組み合わせは、滑稽でしかない。

もう何と言っていいのか分からず、野次馬のことなど気にも留めなくなった半蔵は、殺気を隠すこともせず幸村を睨み付ける。

これでも、不貞腐れた態度を崩さない幸村も幸村だが、その幸村を置いてさっさと立ち去らない半蔵も半蔵である。

「手…」

「は?」

泣きそうな表情もそのまま、唐突に言葉を発したと思ったら、何かを乞うように右手を差し伸べてくる。

つまりそれは、有り体に言えば「手を繋げ」というもので…

その意味を察した半蔵は眦を吊り上げて、足音も荒々しく幸村に向かって歩く。

そして、大きく右手を振りかぶると、残像さえ残さないほど素早くその掌を叩き落した。

「いっ、痛いぞ!?」

「当たり前だ!!」

渾身の力を込めてあの半蔵が叩いたのだ、痛くないはずはない。

「貴様!何を馬鹿なことを!!」

「私は本気だ!!」

「なお悪い!!」

これが冗談だったらどれほどマシか…一瞬だけそう思った半蔵だが、それはそれで腹立たしいことに気付く。

「我侭を言うな!!行くぞ!!」

また泣きそうになるので、有無を言わせず幸村の手首を掴むと野次馬の輪から逃れていく。

その幸村の顔が、気持ち悪いくらい緩んでいたことに、前を向いたままの半蔵は気付かなかった。





しかし、2,3町ほど歩いた頃、一向に前を向いてばかりの半蔵に、また構って欲しくなったのか急に幸村は立ち止まる。

当然、しっかりその手首を掴んでいた半蔵も、立ち止まらざるをえなくなった。

「………何だ…」

「茶屋はそちらではない」

「それは好都合」

「…半蔵…冷たい…」

「〜〜〜ッッ!!そんな顔をするな!!いいから来い!!」

これだけ声を荒げる半蔵など、滅多に見れるものではないだろう。





そういったやり取りが、実は5回ほど行われた。

ようやく「幸村を置いて行く」という選択肢に気付いた半蔵が、それを実行に移そうとした時、遂に幸村が本格的にめそめそと泣き始めた。

(この年にもなって…)

そんな風に思う半蔵の心中は、腹立たしいという気持ちよりも、困ったなという気持ちがほとんどだった。

“困った”ということは、どうにかこの状況を解決しようとする気があるということで…

捕まっているわけでもないから、半蔵の脚力をもってすれば置いて行こうと思えば簡単に置いて行ける。

むしろどうでもいいのなら、置いていっても全く問題はなく、それが彼らのあるべき姿なのだ。

そんな自分の矛盾に気付いてしまった半蔵は仕方なく、出来るだけ目立たないように、でかい子供を道の脇に誘導する。

素直に従った幸村を座らせて、意外と傷んでいないやや茶色がかった髪を梳くように、頭を撫でて宥めにかかった。

(何故このようなことに…)

これでは帰還が遅れてしまうかもしれない。

浮かない半蔵の表情に気付いたのか、いつの間にか泣き止んだ幸村がじっと半蔵を見ていた。

「……泣き止んだか」

怒鳴るほどの気力も根こそぎ奪われたらしく、いつも以上に重々しい声だった。

頭から離れていく手を名残惜しそうに見ていた幸村だが、少しは落ち着いて周りを見ることが出来るようになったのか、相手の様子を察したようだ。

「…すまない。そなたを困らせたいわけではなかったのだが…」

いや、すごい困ったから。

流石にそれは言えなかった半蔵は「いや…別に…」など、曖昧な返事をするしかなかった。

申し訳なさそうな表情をしていた幸村だが、急に何かを思いついたように

「まだ暫く…こちらにいるのか?」

それは、敵になりうる者への問い掛けと言うより、友人に滞在期間を訊ねる程度の軽いものだった。

ほんの僅かに警戒を見せた半蔵だが、そんな幸村の様子を見て警戒を解いたのか、しばし間が空いたが口を開く。

「…それは言えぬ」

くどいようだが任務中だ。

任務の内容もさることながら、この国で任務をしていることすら、幸村には知られたくない。

だが既に見つかってしまった以上、草の者を召抱えている真田家のことだ、おおよそのことは予測が付いてしまっただろう。

今更、黙秘を決め込んでもどうにもならないと、半蔵とて分かっていたが、言わないに越したことはない。

そんな半蔵の考えを読んだのか、それとも端から興味はなかったのか、それ以上は訊ねないまま

「そうか…もし、まだいるのなら…あの向こうの竹林で…」

幸村の長い指が差した方向には、確かに竹が植わっていた。

「今宵、待っているから…」

そう呟いて微笑んだ幸村は、ぞっとするほど儚かった。










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