半蔵が去ってから、かなりの日数が経った。
信之と稲姫の仲も睦まじく、当初周りが危惧していたのが逆に滑稽なほど何の心配もないようだ。
だが、独り身の幸村としては、ちょっと面白くないというのが本音。
何も考えないように、ただ闇雲に体を動かしても、蘇るのは半蔵が繰り出す鋭い槍先ばかり。
褥での記憶でないだけまだ健全かもしれないが、その度に彼はしょんぼり項垂れてしまう。
体を動かすのも億劫になってきたらしく、濡れ縁に腰を下ろすとそのままの勢いで後ろに倒れこむ。
「……あ〜…会いたい」
「幸村様…今が一体どれだけ大変な時か分かってますか〜?」
ぼんやりと呟かれた独り言に、どこからともなく反応が返ってきたが、聞き慣れた声を警戒する必要はない。
「…分かっている…だが…」
「本当に分かってます?このままだと…」
そこまで言うと、くのいちは急に姿を現す。
「何だ?」
漸く視線を黙り込んだくのいちに向けた幸村は、どこか怒ったような目とぶつかる。
何に怒っているのかは分からないまま、ゆっくりと上半身を起こし
「報告を怠るとは、草の者としてあるまじきこと」
こんな時だけ真剣な表情をする主に、今度はやや呆れたような雰囲気でくのいちは
「昌幸様には報告しましたよ」
「…何故、私には何も言わない」
「うざいから」
「うざ…!?」
これは効いたようで、絶句した幸村はふらふらと立ち上がってどこかへ行こうとする。
「…名胡桃城がきっかけで、北条と全面対決かもしれませんよ〜」
思った以上の衝撃を隠しもしない主が、流石にかわいそうになったらしく、くのいちは素直に白状した。
「何…?」
名胡桃城はもともと真田のものであったが、現在は北条に攻略されている。
確かにそれを不服として秀吉に訴え出たが、よもやそれが戦の原因とされようとは。
「…秀吉殿も…なかなか…」
「猿も狸並にゃ」
おちゃらけたくのいちの言葉に、幸村も苦笑を浮かべる。
「そういう方がこれからの時代を創るのだろうな」
「お?敗北宣言?」
くのいちの鋭いツッコミに、何かを言いかけた幸村の口は閉じられ、代わりにどこか遣る瀬無いような笑みを見せた。
「…そうだな」
武士として生まれ、大名の子として生まれれば、天下というものを望む者も多いだろう。
だが、幼少期から共に過ごしてきた主には、天下をとろうという気概を感じられなかった。
「…前から気になってたんだけどさぁ……幸村様は………天下を望まないの?」
その質問に驚きを示した彼は、しかし己の分を弁えているのか、ただ一言だけ答えた。
「いらない」
真摯な表情は、どこか悲壮だった。
「…まあ…狡賢いだけの幸村様なんて嫌だし?」
「ああ、私も嫌だな」
「…半蔵も嫌だろうしぃ?」
「なっ!?何故そこで半蔵の名が出てく…」
「いや〜いい反応いい反応♪」
笑い転げる少女にからかわれただけだと分かり、少し情けない気持ちになる。
そんな表情を見つめていたくのいちは、先程とは全く違った性質の笑みを浮かべた。
あまりにも若すぎるが、それはどこか母を髣髴とさせる微笑。
「私は、幸村様の味方だからね?」
幼い頃から共に育った彼女の言葉は、真っ直ぐに信じるに値するものだと経験から知っている。
「…ありがとう」
だから幸村も、真っ直ぐに偽り無く応えられる。
「いえいえ。こちらこそよろしくぅ〜」
ちょっと照れ臭そうに笑ってそう言う彼女は、照れ隠しなのか指でお金のジェスチャーをしている。
「考えておこう」
「やった!!」
普段の生活に困らない給与を与えているつもりだが、幸村は彼女が甘味を好むことと意外と大食いであることを知っている。
気兼ねなく食べられるよう、少しくらい余分の給与を与えてもいいだろうと思った。
そんな気持ちの余裕を知っている彼女も、彼のもとへお裾分けと称して甘味を持って行くのだろう。
幸村が、少し弱ってしまった時に。
影として生きる少女。
だが、浮かべる笑みは明るく輝いている。
強い日差しの中、懸命に歩き続けて、倒れそうになった時、不意に見つけた、木陰。
幸村にとっての彼女の役割は、今も昔も、変わっていない。
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