梅雨みたいだと思った。

どちらかというと、槍を持って馬で駆ける方が性に合っている幸村は、詩的なものには然程詳しくない。

だが、彼は強くそう思っていた。



奇しくもその日、小田原には実際に雨が降っていた。

もちろん幸村が思ったのは、目の前の光景に対してではない。

このいつ終わるとも知れない城攻めは、梅雨の時の心情を思い起こさせる。

百姓にとってはなくてはならない季節だと知っている幸村だが、実は外で鍛錬の出来ない季節は苦手であった。

梅雨によって作物は育つのだという。

ならばこの戦によって、何が育っていくのか。

分かっていることは、自分の与り知らぬところで、時代がうねり始めたということだけ。

彼自身も気付かぬうちに、自嘲が口元を彩っていた。







「…と思うのだが」

「一理ある」

「幸村はどう思う?」

急に声を掛けられた幸村は、慌てて外の景色から室内へ視線を向ける。

そこには、ひょんなことから知り合いになった三成と兼続がいた。

板敷きの間に広げられた小田原城の見取り図から、彼らが城攻めのことを話していたのだと気付く。

しかし、分かるのはそこまでで、話など全く聞いていなかった幸村は申し訳なさそうに

「す、すみません…少しぼうっとしていて…」

「聞いていないのだな」

「…はい」

「まあまあ三成。この時期はとかくぼんやりしがちだ」

「…そうだな」

実際に起用されるわけではないが、三人で集まってはそういう模擬的な作戦を立てる。

雨で攻撃の仕掛けられない状況が続き、集まった大名達も各々暇を潰しているらしい。

しかし、あまりにも長引けば城を攻める案など、尽きてしまうのが当然だ。

そろそろ飽き始めたのか、幸村同様に開け放たれた戸の外を見た兼続の眉間に皺が寄る。

美形は何をしても様になるな、とぼんやり眺めていた幸村に視線を向けると急に口を開く。

「お前はあれを見ていたのか?」

「あれ…?」

何を指し示しているのか分からない幸村と三成に、暗闇の中の一点を指し示す。

普通は人がいるとは考えられない屋根の上で、なにやら二つの影が鎬を削っているようだ。

ぼんやり見ているだけでは絶対に気付けないであろうそれは、確かに気配の消し方から見ても忍が戦っていると分かる。

しかし忍でもない兼続が容易に発見できるほどに、その動きはやけに大きい。

「乱派か…?」

「随分と派手にやっているようだが…」

彼ほどの腕前の忍なら、自分達に易々と発見されるような戦い方はしないだろう。

だが、どうしても気になってしまった。

「幸村?」

「どこへ行く気だ」

「少し…見てきます」

「馬鹿を言うな!巻き込まれたらどうする!!」

「大丈夫です」

何が大丈夫なのかも分からないまま、幸村は雨の中駆け出して行った。

残された二人も顔を見合わせると、兼続はそのまま追いかけ三成は一度奥に引っ込んだ後、三本の傘を手に二人を追った。







人の近付いてくる気配を感じたらしい。

どこか魔性の気を纏った大男は動きを止めると、屋根から引き摺り落とした男と幸村達を交互に見るとすぐに消えた。

目の前で片膝をついている人物を嘲笑ったのが、見えもしないし聞こえもしないのに、何故か分かった。

二人が止めるのも聞かず、幸村は三成から渡された傘を、その影に差し掛けるようにして近付いていく。

「…生きているか?」

それが服部党の誰かなら、再び半蔵に逢えるかもしれない。

そんな下心満載で声を掛けると、その影は勢いよく顔を上げた。

目があった瞬間、夜間だというのに幸村は叫んでしまった。

「半蔵!?」

「……もののふ…?」

驚いたのは幸村だけではないようで、紺の忍び装束の半蔵が、夜目にも分かるほど狼狽していた。

とりあえず危機が去ったことと、久しぶりに会う幸村に安心してしまったのだろう。

目に見えて肩の力を抜き、完全に座り込んだ。

「一体なにがあったのだ?」

慌てて傘を差し掛けながら、着物の裾を汚さないようにしゃがみ込んだ幸村を見上げ

「北条の手の者と、遭遇してしまっただけだ」

さらりと言ってしまうが、それはかなり重大なことだと言える。

こちらが北条の出方を窺っているのと同様、向こうもこちらの動静を探っているのだ。

しかも、下手をしたら半蔵が負けていたかもしれないほどの力を持った忍が、わざわざ出てきている。

「…家康殿に報告は?」

「放ってある」

別の者がすでに家康の元へ走っているらしい。

改めて自分で向かおうとしない半蔵の様子から、他の北条の忍が追いかけていった可能性は薄そうだ。

それか先の大男以外の北条の忍は、大したことない腕前なのだろうか。

もっとも、先の大男だけが単独で乗り込んできたとも考えられる。

詳しく聞きたいと思った幸村だが、そこまで想像するに留めた。

忍は口が固い。

あのくのいちでさえ、重要なことは決して軽々しく口にはしないのだから。

「…幸村」

どこか咎めるような響きを持った三成の声に、ようやく彼は振り返る。

「あ、すみません」

「それより…どういうことだ?」

紺色の忍び装束に向けられているその鋭い視線から、彼がただの下忍ではなく忍の頭領だと見抜いているらしいことが分かる。

一応は同じ陣営に属しているものの、もともと自分と違う者を主とする者を疑わしく思うのは当然だろう。

ましてや武士であるならまだしも、主の為だけに働くことをよしとする忍だ。

不信感は募って当たり前だが、幸村はそんなことを気にした素振りもなく

「知り合いなんです」

そう言って照れ臭そうに笑う。

その様子からただの知り合いではないことが窺えるが、二人ともツッコミはしない。

藪蛇だとでも思っているのだろう。

「拙者はこれで…」

相手が誰かも知っているし、こちらの正体も知られている以上、名乗る必要もないと思ったのか半蔵はそのまま立ち去ろうとする。

「あ…」

立ち上がろうとした半蔵の肩を、無意識のうちに押さえていた幸村の口から間抜けな声が出た。

「なんだ…?」

理由など聞かれても、何も考えていなかったのだから言い訳のしようがない。

「あ…そ、そうだ!!そなた怪我をしているのではないか?」

明らかに取って付けたような理由だが、そんな素直な幸村を嫌いではない半蔵は微かに頷いた。

「よし!ならば手当てをしよう!!」

傍から見たら何が嬉しいのか分からないほど、頬を染めて興奮気味にそう告げる。

断る理由が思い浮かばなかったのか、半蔵は暫し考えた後頷いた。

「ではこちらに…」

「────ッッ!!」

今度は立ち上がらせようと幸村が手を引っ張ると、微かにだが息を詰める。

「す、すまぬ!!腕も痛めていたのか…?」

「…案ずるな」

安心させるようにそう告げると、彼らしくない動きでゆっくりと立ち上がった。

左足を庇う仕草に目敏く気付いた幸村は、暫し躊躇った後で

「その…もしかして…足も痛めているのか…?」

「…いや」

明らかに嘘だと分かる半蔵の言葉に、少し寂しそうな表情を浮かべた幸村は兼続に傘を差し出す。

「ん?」

反射的に受け取ってしまった兼続に笑みを向けてから

「御免」

それだけを短く告げて、半蔵を軽々と横抱きにしてしまった。

「半蔵が濡れないように傘をお願いします」

漸くそこで兼続に理由を説明するあたり、瞬時に彼の中での段取りはできていたのだろう。

「あ、ああ…」

兼続が同意を示すと同時に歩き出す。

「も、もののふ!?」

驚きすぎて声が出なかった半蔵が復活する頃には、それなりの速度で歩き出していた。

「今は…大人しくしてくれ」

命令のような懇願のような、どこか不思議な響きを持った声に、不安そうな面持ちの半蔵は力を抜いた。





手当ての最中も、何ともいえない空気が漂っていた。

まるで人が変わってしまったかのように無言で布を巻く幸村と、それを大人しく受け入れている半蔵。

一言も言わない三成も兼続も、ただならぬ二人の関係を感じ取っていた。



所詮は他人事だと思っても、どうしても不安がよぎる。

今はいいが、皆が天下を狙う今、彼らの結末は見えている。

考えることは同じだったらしく顔を見合わせると、それぞれ俯いてしまう。



兼続はどこか悔しそうに唇を噛み締め、三成は珍しく悲しげに眉を寄せていた。