誰かが近付いてくる気配を感じ、幸村は顔を上げ目を細めて相手を確認しようとする。

もう槍を構えるほどの力は残っていないようだが、その視線だけでも充分に相手を震え上がらせることは出来ただろう。

その相手が半蔵でなければ、の話だが。

ある程度近付いたところで、ようやく半蔵だと分かったらしく、幸村の表情が一変した。

鬼神のような表情から、迷子になった子供のような表情に。

「は、んぞ…ぅ…」

乾いた声に名を呼ばれた瞬間、誰の目から見ても明らかに半蔵の歩調が速まった。

「もののふ」

あと数歩というところで呼びかけると、倒れることも考えず震える手を槍から離し差し伸ばす。

崩れ落ちる幸村を慌てて半蔵は支えようとしたが、その体重を支えきれず二人ともずるずると座り込んだ。

目は見えているのか間近にある半蔵の顔をじっと見つめた後、重たげに手を上げその覆面をはぎ取ろうとする。

結局は力が入らずうまく外せなかったのだが、それを見かねて半蔵自ら外した。

「…すまない」

申し訳なさそうな笑みを浮かべた幸村は、しばし相手の顔を見つめた後その肩口に顎を乗せる。

「いや…構わぬ」

そう答えた半蔵も、幸村の頭に頬を摺り寄せる。

戦場では在り得ないはずの光景に、家康もどう対応すればいいか分からず、ただ見ているだけだった。

これではまるで……そう、これではまるで…

今更ながらに、あの“噂”が本物なのだと知らしめられてしまった。

見たくはないという家康の意志とは反対に、どうしても、どうしてもその光景から目が離せなかった。

雨に打たれ、血と泥にまみれ、決して美しいとは言えない光景。

それでも誰もそれから目を離せず、雨の音でさえも聞こえぬほど緊張し、静まり返っていた。

「最期の最後で…こうして、そなたの温もりを…」

もう動かすことも出来ないほどの腕を、必死に半蔵の背に回そうとしている。

「幸せだ…半、蔵…」

その表情は半蔵には見えなかっただろうが、家康には見えていた。

とても満ち足りた表情だと思った。

「拙者もだ」

もしかしたら、もう聞こえていないかも知れないけれど、どうしても半蔵は答えておきたかったようだ。

はっきりとした声でそう告げた後

「…幸村」

そう小さく呟いて、強く、強く幸村を抱きしめた。

まだ微かに意識があったのか、笑みを深めた幸村は、安堵したように溜息をつく。

それは静まり返ったその空間に、やけに大きな音を響かせた。

そしてそれきり彼は動かなかった。





信康の介錯の時にしか見せなかった涙が、今再び鬼半蔵の目にあった。











表門