その日は、僅かに雨が降っていた。

なんのきっかけだったかは覚えていない。

彼との会話は大抵そんなもので、どんどん話が飛躍していくから、最初の会話との繋がりは全くなくなることもしばしばだ。

その日もそうだったようで、まだ会ったことのない長男の性質の悪い熱が下がったことを、我が子のことのように喜んだ後だった気もする。

手土産に持ってきた柑橘類を、大分顔色の良くなったらしい幼子に届けさせたことを告げると、珍しく素直に頭を下げた。

その時点で、もう彼は覚悟を決めていたのかもしれない。

「我が死んだら…子供達のことを頼んでも良いか?」

突拍子もないことに、手の中にある皮を剥き終わった太陽のような果実の房を潰してしまった。

「はぁ?何を縁起でもねぇこと…」

その房を優先的に口に運びながら訊ねると

「どうだ?頼まれてくれぬか?」

いつものような有無を言わせぬ口調に、ため息をついて渋々頷いた。

「…まぁ…そこまで言うならなぁ…」

こうして折れるのは、いつも自分の役割だと自覚している。

所謂『惚れた弱み』というやつだ。

「……忘れるなよ?」

「ん?あ、ああ…」

念押しする表情はやけに真剣で、その剣幕に呑まれたのだと気付いたのは、ずっと後のことだった。

だから、答えも上の空だった。

彼との会話は、すぐに別の話題になっていたから、その時はそのまま話を蒸し返すことも出来ず。

後にして思えば、もっと別の道もあったかもしれないと、思ってしまう。

考えるだけ無駄だし、そんなこと口にしたら、また彼に叩かれるだけだったのだろうけど。

とにかく、その日も、僅かに雨が降っていた。







数日後、届いた文には『我が命をもって、戦国を終わらせよ』とだけ書かれてあった。

我ら年寄りが始めた争乱の世…けじめをつけねばなるまい?

まるで耳元で聞こえてくるかのような、切々とした文に

(お前はまだ若いだろうが…)

心の中だけでツッコミをしつつ、暫くその流麗な文字を追っていたが

「…ケッ…しょうがねぇな…」

最後の手紙は、酷く緊張して書いた。

もちろん、その言葉に、報いる為に。







直ぐに元就は、三人の子供達を呼び寄せて、こう切り出した。

「長曾我部殿につけ」

常々彼の鬼の武勇を、目の前の父から聞いていた三人は、いきなりのことに驚きはしたものの拒否はしなかった。

それどころか今まで同盟を結んでいなかったことを、不審に思っていたくらいだ。

それに、個人的にも悪感情を持ってはいない。

体が弱いせいか、しょっちゅう寝込んでしまう長男は、その度に手土産と称して様々な心遣いをしてもらっている。

その時の喜びそのままに、目を輝かして

「では…長曾我部殿と同盟を…?」

「家督は既に隆元に譲ってある。お前達は家臣を連れて長曾我部殿の元へ行け」

「は、はい…」

何か違和感を覚えたが、それを深く考える間も無く指示が飛ばされる。

いくら家督を嫡男に譲ったとしても、まだ元就の影響力は絶大だ。

あまりよく理解できないまま、追い立てられるように三人は鬼が島へと渡った。







あまりの山奥に辟易していた子供達だが、漸く城についても緊張は解れない。

山の上までは籠を用意してもらえたので、さほど肉体的には疲れていなかった。

「おう!!来たか!!」

漸く着いた屋敷で、主自らが待ち構えていたことに驚きはしたものの、すぐに油断なく表情を隠す。

この辺り、彼らが元就の息子だという確かな証のようなものだろう。

「長曾我部殿、此度の戦…貴公の元、参戦致す所存にござる」

たどたどしく隆元が告げれば、目を軽く見開いた後、鬼は屈託のない笑みを浮かべた。

「流石、毛利殿のご子息達だ!!礼儀正しいな!!」

いちいち声が無駄にでかい。

父とは全く正反対の男に、子供達は目を白黒させている。

「よし、とりあえずこっちに来い!!」

無理矢理に近いかたちで隆景を肩車し、その大きな両手にそれぞれ元春と隆元の手を握りこむ。

小さな手に若干驚いたようだが、すぐにその手に合わせた力加減で握り締め直す。

そういった微妙な気遣いにも気付けるほどに、子供達の洞察力は父譲りであった。

そのせいか、初対面なのに馴れ馴れしい男の態度にも、悪い感情は抱かなかったらしい。

隆景は元親の銀の髪にしがみつき、普段では決して見ることの出来ない高さからの世界を堪能している。

時折落ちそうになっては、子供らしい甲高い声ではしゃぐ。

「おいッ!?落ちるから暴れんな!!うわっ…ちょっ…ッッ!?」

それに元親が慌てれば、それがまた面白いらしく、わざと落ちそうな体勢をとる。

「いでッ!!髪をあんまひっぱんなって!!ハゲるだろうが!!」

父よりもまだ若いであろうに、そんなことを気にしているらしい男に、耐え切れず長男と次男が噴出す。

「お前達はまだ子供だからいいけどなぁ…結構怖ぇぞ…?」

しみじみと告げられる、鬼と呼ばれる男にしては可愛らしい恐怖に、また子供達は笑い出した。







随分長いこと聞いていなかった子供達の笑い声が聞こえた気がして、俯いていた元就は顔を上げる。

手元にあるのは、元親からの文。

(あれは…子供好きだったな…)

子供に限らず、動物も好きだった。

以前、忍んで城下に行った時に、どこぞの犬に頬擦りしていたことを思い出した。

そういった優しい面を持ち合わせていることを思い出し、元就は一人で微かに笑う。

その脳裏には、子供達に遊ばれているようにしか見えないであろう元親の姿が、ありありと浮かんでいた。

再び持っていた大事な文に、視線を落とす。

外見に似合わず公家風な文字で綴られた、外見通りの男らしいガサツな返事。

『分かった。全て、預けろ』

緊張してゆっくりと書いたのか、いつもよりも墨が滲んでいる気がする。

(あやつに任せておけば、大丈夫であろう)

確信が得られたわけではないが、大切な子供達の運命を預けられるほど、無意識のうちに元就は元親を信用していたらしい。



「…元親…頼む…」



そう呟いてほんの一瞬だけ、自分の為だけに、悲しげな表情を浮かべ、目を閉じた。