それまで滔々と事務的に文書を読み上げていた信親は、急に不機嫌そうに口を閉ざした。

「…父上…聞いておられますか?」

目の前で足を崩している元親は、宙に目を泳がしていて全く信親の話を聞いていないように見える。

あまつさえそう問い掛けられてなお、信親の方を向く気配はない。

「な〜んか忘れてんだよなぁ…」

「…まだお呆けになるには早いですよ?」

「うっせぇよ」

軽く息子を一睨みするも、当人はそんな視線に怯む素振りもなく、肩を竦めて部屋を出て行こうとする。

恐らく元親が溜め込んでいた仕事の方を、代わりに行ってくれるのだろう。

突然訪れた、その“忘れた何か”を思い出す時間に、元親は逆らうことなく浸ることにした。

障子越しに映った息子の影を眺めながら、不意に誰かに言われた言葉を思い出す。

『出来た息子よ』

黙っていれば一つの芸術作品のような美しさは、いつも冷たい感情だけを見せた。

『貴様の血は引き継がれなかったようだな』

そう言って馬鹿にしたように笑うのは、彼しかいない。

「あ…」

そして、ようやく思い出した。

“何”を忘れていたのかを。



「まだ、返事貰ってねぇや…」



まだ若かった時分、全てを投げ打つ覚悟でした一世一代の睦言。

あの時は本当に、彼しか要らない、と思って、いた。

珍しくうろたえたような困ったような曖昧な笑みを浮かべた彼は、結局元親に何も遺さなかった。



あれからもう数十年経っていた。



「……しゃあねぇ…」



返事は彼岸で聞くしかない。



(あ〜何かそう思ったら…)



あの頃より、確実に月日を重ねた鬼は



(早く会いたくなっちまったなぁ…)



酷く穏やかな笑みを浮かべていた。