ある日、弥三郎がいつものように着物の帯を侍女と選んでいたら、急に家臣達が乗り込んできた。
男物の着物を無理矢理着せられそうになった上、何か重要な席に連れて行かれると分かった途端、逃げ出した。
後ろから家臣達の慌てふためく声が聞こえてきたが、子供の機動力には敵わなかったと見える。
山に逃げ込んでから、もう追って来ている気配は無い。
もともと同年代の子供と比べて、体の発育のいい弥三郎は、その気になれば大人顔負けの力が出せるのだ。
本人もそれは気付いているが、気付かないふりをしていた。
少し乱れた女物の着物を慣れた手つきで直してから、汚れ具合を確かめる。
(よかった…思ったより汚れてない…)
そのことに安堵すると同時に、急に己の女々しさを痛感してしまい、弥三郎の目に涙が溜まっていく。
徐々に日も落ちて、心細くなってきたというのも理由にあるだろう。
ようやく自分のいる場所が分からない…つまり迷子だと気付いてしまい、途方に暮れてしゃがみ込んだ。
このままだと山の獣に食い殺されるかもしれない、と起こりえそうなことに気付いてしまう。
そして、自分が自分の身を守る方法すら身に付けていないことにも気付き、本格的に声を殺して泣き始めた。
叢や木立を風が吹き抜けていく音にも怯えていると、明らかに風ではない力によって叢が動いた。
「だ、誰っ!?」
猪や熊を想像していても、声を出して問い掛けずにはいられなかった。
「そなたこそ…誰ぞ?」
しかしそう言って姿を現した子供は、身なりこそ汚かったが、弥三郎の持っている人形よりも愛らしかった。
恐らく見惚れたと言っても過言ではない弥三郎に、少年はもう一度声を掛ける。
「こんな時分に…危ないではないか…どこの者だ?」
「わ、私…私は……皆には姫って呼ばれてるわ…」
名を告げれば、男であることを知られてしまう。
咄嗟にそう告げた弥三郎は、己に「確かにそう呼ぶ人もいる。嘘ではない」と言い聞かせていた。
「ほう…ならば…岡豊の姫か…」
少し驚いたようだが、少年はあっさりと頷いた。
少年は年のころは弥三郎と同じかちょっと上だろう。
「…あなたは?」
これ以上自分のことばかり聞かれれば、必ず正体が判明してしまう。
それにこの時間にこんな山にいる点では、お互い不審者でしかないのだから、相手の素性を聞いておくに越したことはない。
「我は松寿丸という」
名を告げる凛とした声は、涼やかに弥三郎の耳に入った。
ボロボロになってしまっているが、よく見れば着物の生地も上等なものだし、話し方や物腰は武家の子と言った方がしっくりくる。
近隣の農家の子ではないことは確かだし、この辺りの方言も全く出てこない。
「…松寿丸は…どこの子なの?」
「……瀬戸の海の向こうだ」
「…大陸…?」
日本の国の隆盛にあまり興味の無い弥三郎にとって、海の向こうは全て外国のようなものだった。
そんなこと常識だと思っていた松寿丸は、弥三郎をぎょっとしたように見た後、苦笑を浮かべて教えてやる。
「馬鹿者。安芸だ」
己の無知さを恥じて真っ赤になってしまった弥三郎だが
「今は分からずとも、いずれ分かる。気に病むな」
そう言って微笑んだ松寿丸に、同じように笑みを返せた。
「ねぇ、瀬戸内の向こうの子なのに…どうしてここにいるの?」
「うむ。父がちと四国に所要があってな…それに着いてきたのだ。そう言うそなたは?」
「え?私…?」
同じ年頃の友達のいない弥三郎にとって、松寿丸と話すことは楽しくて、ついつい忘れてしまっていた。
しかし状況は迷った時と変わらず、更に悪いことにとっくに日も暮れてしまっている。
「ひ、姫!?どうした!?」
「…私…迷子になっちゃったの…」
どんどん涙が出てくるが、それは頬を伝わず、松寿丸の服に吸われていった。
「何を恐れる?我がおるではないか」
「松寿丸…?」
「そなたは岡豊の姫だったな。屋敷まで戻ればいいのであろう?」
少し背の高めの弥三郎の背を、宥めるように擦る手はどこまでも優しい。
安堵からか、しがみ付いてくる弥三郎の力強さに息を詰めた松寿丸だが、その手を止めることは無かった。
野生の勘とでもいうべきか、松寿丸は道筋を知っていたのか、結局無事に戻ることが出来た。
今、自分がどこを歩いているかなど分からなかったが、弥三郎は松寿丸についていけば大丈夫だと思っていた。
弥三郎に比べれば、随分と小柄な松寿丸だが、その背はとても頼もしく見える。
手を繋いで他愛の無い話をして、足元が悪ければ注意を促してくれたり肩を抱いてくれたり…
きっとそのどれもが幼い弥三郎を気遣っての行動だった。
こんなに優しく接してくれる人間を、松寿丸以外に弥三郎は知らない。
どうやら夜になっても弥三郎が帰ってこないので、皆が総出で探しているようだ。
屋敷を浮かび上がらせるかのような、遠目からでも分かる篝火の多さに、心持ち松寿丸の歩調が早まる。
「姫。もう大丈夫だ。だが、これから問題が待っている」
「問題…?」
松寿丸がいれば何でも解決すると思ってしまっていた弥三郎には、寝耳に水だった。
「そう…そなた…間違いなく叱られるな」
「…あ…!!」
すっかり失念していたが、逃げ出した上にこのような大掛かりな捜索となると、被害を被った人間の数は計り知れない。
怒られるのに慣れてしまったが、今回ばかりは逃げ出したいと思ってしまう。
「…ど、どうしよう…」
「そうだな…よし…我も行こう」
「ほ、ほんと!?」
「うむ。ついでにそなたを嫁に貰えるよう説得してみようか」
冗談だとは分かっていても嬉しかったようで、真白な弥三郎の肌が朱に染まった。
それを微笑ましく見ていた松寿丸だが、屋敷近くで急に聞こえた声に立ち止まると神経を尖らせる。
「弥三郎様!?」
「…弥三郎…だと?」
松寿丸の名では無いとなると、飛び出てきた男の視線の先が、その名を持つ者なのだろう。
思わぬところで松寿丸に己の正体がばれてしまった、弥三郎の体が強張る。
それは繋いだ手から松寿丸に伝わり、そのことが真実であることを示していた。
「…そうか…そなた…長曾我部の跡取りか」
その正体に気付いた松寿丸だが、別段うろたえた様子もなく、隣にいる弥三郎に問い掛けた。
「何故、女子の格好を…?」
似合っているからいいが。
そう言って微笑む松寿丸が怒っていないことが分かった途端、弥三郎の口から本音が零れ落ちる。
「……戦を…したくないの…」
「自らの手を汚したくないか?」
「あ、当たり前じゃない!!」
「ならばその分、誰かの手を汚しているのだぞ?」
側に控えている家臣の手に視線を向け、それが一度は他人の血に染まったことのある手だと思い至ったらしい。
慌てて距離を取ろうとする弥三郎に、家臣は困惑を表すしかなかった。
だが、子供らしい愚かさに、少年は見て見ぬふりをしたらしい。
「我は兄上の手を、これ以上汚したくはない」
微かな誓いは、聞き逃しそうなほど小さかった。
「…姫…いや、弥三郎…よく見ておけ…」
そう言うやいなや、繋いだ手をお互いの目線まで掲げ
「我のこの手も、いずれ人殺しの手になる」
鋭い視線で告げる松寿丸に、弥三郎の手が一瞬だけ引きかけるが、松寿丸は素早く握り締めて逃がさない。
「いいか。こんな時代だ…守りたいものを守るには、傷付け傷付かねばならん」
「守り…たい、もの…?」
「そうだ。お前には生まれた時からこの国を守る義務がある」
「…っ!!いらない!!そんなの…いらないっ!!」
その叫びに、徐々に集まりつつある家臣達が痛ましい表情を浮かべる。
子供同士の戯れの言葉にしては、その内容が二人の深い部分を晒すものだったからだろう。
「ならば…お前を心から信じている領民を家臣を、見捨てるか?」
「それは…それも…嫌…」
自分でも都合のいいことだと分かっているのだろう。
俯いていく弥三郎の声は徐々に小さくなっていく。
「だろうな。戦をしたくないから女子の格好までするお前だ…優しすぎるのだ」
囁くように告げた松寿丸の笑顔は儚くて、弥三郎は瞠目する。
「だが…お前には、出来ることがあるだろう?」
そっと離れていく手を止めることが出来なかった弥三郎は、その声だけを頼りに松寿丸を感じ取る。
「私、に…?」
一国の主となるべくして生を享けたからこそ。
「お前には、何が出来る?」
国を纏められる?
領土を増やせる?
家臣の生活を保障できる?
農民の暮らしを豊かにできる?
ああ、そうか…
「私は…」
そうだ…そうだった…
分かりきったことだったはずだ。
知っていて、拒否をしていたのに。
「俺は…」
鬼に、なれる。
その言葉を聞いた少年は、満足そうに微笑んだ。
ほんの少し、寂しそうに。
「さよなら」
姫。
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