『必ず…かえります』


そう言って微笑んだ青年の顔は、決して忘れられない。










土井半助にあてがわれている部屋で、いつものような光景がひろがっている。

いつもの…すなわち、半助が仕事の為に机に向かい、利吉が部屋の隅のほうからそれを眺めているという光景が。

「…先生…」

いつもなら半助の仕事が終わるまで、話し掛けないようにしているはずの利吉が急に呼びかけた。

「なんだい?」

呼びかけられた半助は、少し驚きはしたものの、テストの採点の手を止めることなく反応を返す。

それをさして気にする様子もなく

「明日から…仕事があります…」

利吉の言葉に、半助の手が止まったがすぐにまた動き出し

「そうか…大変だね…フリーの忍者は…」

「…はい…」

「しかも売れっ子の…もうちょっと、ゆっくりしていけたらいいのに…」

冗談めかして振り返った半助は、思いのほか真剣な利吉の視線に射すくめられる。

半助はその視線の持つ意味に即座に気付いた。

僅かに違えど、同じ職を持つ者としての勘だ。

「…危険なのかい…?」

そう尋ねると、居ずまいを正した状態で利吉は頷き

「はい…生きて帰ることができるかは、分からないようです…」

まるで他人事のように話す利吉に、半助は眉を顰めて問い掛ける。

「どうしても…行くのかい?」

答えなど、分かりきっている。

それでも聞いてしまうのは、半助の中にまだ微かな希望があるからなのかもしれない。

この青年が、自分といてくれるのではないか…と。

だが、青年はほんの僅かの沈黙と共に答えを返す。

「…はい」

予想通りの答え。

望んでいなかった答え。

「…そう…だったら…気を付けて…」

それ以上は、何も言えない。



怪我をしないで。

死なないで。

帰ってきて。

───必ず。



言いたい言葉は、いつも喉元まで来るがそこから先に上れない。

そして、利吉を引き止めるだけの言霊を半助は持っていない。

「…はい…ですから…」

利吉はそう言うと、そっと半助を後ろから抱き締める。

「り…利吉君?」

うろたえる半助にいつものように笑いかけ

「それ…いつになったら終わります?」

利吉の目線は、半助が採点している最中のテストへ。

「あ…ああ…あと…二人分…」

残りのテストの枚数を数えると、利吉は小さく笑い

「だったら待ちます」

と言って半助が動きやすいように腕の位置をさり気なく変える。

そういう気遣いがいつの間に自然にできるようになっていたのだろう…

半助は自分の後ろにいる青年の成長を感じた。

それを少しだけ気恥ずかしく思ったが、それを悟られないように文句を言う。

「…だったら…って…多かったらどうするつもりだったの?」

「そんなの…」

耳元で利吉の甘く低い声で名前を呼ばれ、その上耳朶を軽く噛まれた半助が身を捩る。

「…ちょっ…り、利吉君っ!?」

思いがけない事をされ、真っ赤になった半助が抗議をしようと耳を押さえて利吉を振り返る。

だが、艶めいた行為の後とは思えないほど、利吉はぽかんとした表情をして机の上を見ていた。

「あ…」

そして、ようやく出た一言に半助は噛み付く。

「何だ!?」

は組の生徒を相手している時のような声に、利吉は一瞬だけ半助を見たがすぐに机に視線を戻す。

「…先生…」

「だから、何だ!!」

半助は利吉を睨みつけたままなので、利吉は注意を机に向けさせるため机を指差す。

利吉の顔から長い指に視線を移し、その指の示している先を見ると…

そこには当然、さっきまで採点をしていたテストの紙がある。

ただし、まずい事に半助の放り出した筆がその紙の上に横たわっていた。

「あ…」

呆気にとられた半助の代わりに利吉が急いで筆を退ける。

だが、時すでに遅し。

紙には意味不明の赤いしみが出来上がっていた。

おそるおそるテストの解答者の名前を見る。

「猪名寺…乱太郎君…ですね…」

同じ事を思っていたようで、利吉が先に名前を読み上げる。

「…よかった…」

半助の口から安堵の溜め息が漏れた。

あの子なら謝ればすぐに許してくれるだろう。

「すみませんでした」

先手必勝とばかりに謝ってくる利吉を軽く睨みつけてから

「分かったなら、ちょっと大人しくしていてくれ」

と言ってまた採点に戻る。

しかし、乱太郎の採点を終え答案用紙を退けた瞬間、半助の動きが止まった。

「…き、きり丸…」

利吉は呟かれた名前に、ほんの少し不満をもちながら半助の手元を覗き込む。

そこには乱太郎と同じような赤いしみが出来上がっている解答用紙が一枚。

ただし、乱太郎のものよりも小さいのが救いなのだろう。

「…いや…きっと大丈夫だ…」

半助は自分に言い聞かせるかのように呟いて採点を開始した。

そんな仕草がおもしろくて、利吉は半助に気付かれないように苦笑を浮かべた。



「よし!」

「終わりましたか?」

利吉が尋ねると、半助は歯切れの悪い返事を返す。

「あ…うん…」

利吉はそれを全く意に介さず

「それでは…」

と言って後ろから半助をきつく抱き締めた。










まだ誰も起きないような時間に、利吉と半助は忍術学園の門にいた。

「では…行って来ます…」

利吉は笑顔でそう言った。

「…行ってらっしゃい…」

それに、半助もどうにか笑顔で返した。

「そうでした…これを…」

思い出したように利吉はそう言うと、半助の手の中に押し付けるようにして手紙を渡す。

「これは?」

驚いたように手紙を見たまま半助は尋ねる。

利吉は苦笑して

「この手紙は…どこかの合戦が終わってから…開いてください」

「え?」

半助はようやく手紙から利吉へと視線を移す。

「必ず…かえります」

それを待っていたように、利吉はいつもの笑顔で、いつもは言わない言葉を告げた。

「かえる…って?」

不意に口から零れた言葉に、半助自身も驚いた。

「え?」

大きく目を見開いた利吉の態度に、自分が何を問い掛けたかったかが思い当たり

「どこに…かえるの?」

もう一度、半助は尋ねた。

「…そんなの…」

一瞬だけ真剣な表情をした利吉は、すぐに苦笑しながら半助の胸にそっと手を当て

「ここに…決まっているでしょう?」

半助はその手に視線を落とし

「わたしの…元に?」

「ええ…あなたの………あなたへ、かえります…」

優しい木漏れ日のような笑みを浮かべた利吉に、それ以上追及できなかった半助はぎこちなく頷いた。





わたしの元へ帰るの?

わたしの心へ還るの?

──また、聞けなかった。



君は、死ぬ気なの?

──また…聞けなかった。





昇り始めた朝日に呑み込まれるようにして消えた青年の影に、妙な胸騒ぎがした。










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