一面血の海だった。
普段の仕事では、よっぽどのへまをしない限りは、人と斬り合う事がない為思わず眉を顰める。
(おっと…三病の戒めにひっかかったか…?)
決して恐れを抱いたわけではないけれど、あまり見たい光景ではないことは確かだった。
守るべき殿は、どうなったかわからない。
だが、いつもの場所にいなかったということは…もう…
(さて…脱出経路は…)
守るべき者がいなくなったのに、いつまでもここにいる必要はない。
犬死など御免蒙りたいところだ。
既に味方は前もって教えられていた脱出経路から逃げたようで、敵が乗り込んで来てから1人として見かけなかった。
その場に自分以外の生きている人間がいないことを確認して動こうとした瞬間。
「…っ!?」
その場に膝をついてしまった。
先程当たった矢に何かしらの薬でも塗ってあったのだろうか、体が思うように動かない。
即死しなかったことから、あまり強い毒性を持っているとは考えにくい。
だが痺れに似た感覚が襲ってきて、動けないのだ。
どちらにしろこのままだと、敵方の手の者に見つかって殺されてしまうだろう。
(くそっ!!)
誰にともなく悪態を付いて、力の入らない拳で同じように力の入らない膝を叩いた。
しかし、力が入らず血の海に倒れこむ結果となった。
「くっ…そ…」
その時、人の足音が聞こえた気がした。
敵の忍者だろうか?
だとしたら、絶対に助からない。
投げつける武器は尽きた。
刀も血と脂にまみれて、もはや使い物にならない。
──どうする?
────どうする!?
焦ってはいけないと思うが、どうしても焦ってしまう。
生きて帰りたいという欲が、いつもの冷静さを奪っていく。
覚悟はしていたはずなのに、今はどうしても死にたくはなかった。
死に急いでいるわけではないけれど、かなりの無茶をやってきたと思う。
あの人もきっと、そんな自分の気性を知っていただろうけど。
だが、どうしても…あんな顔をあの人にさせてしまったのなら…
帰る…かえる…帰る…かえる…帰る──必ず。
…あの人の元へ。
腕を上げる力もなく暗闇にのまれそうな意識の中、利吉の脳裏に見覚えのある後姿が浮かんだ。
いつもいつもその後姿を追い続け、昔はとても遠く感じた人が、昔ほど遠くは感じなくなっていた。
多分それは…こちらから呼びかけなくても、時々振り返ってくれるようになったから。
ほら…今だって…
それは、記憶の中よりとても遠く…それでいて、近い。
名前を呼ぼうとして、声帯を震わせたが、くぐもった呻きにしかならなかった。
だがその人はまた振り返ってくれたから、きっとこの声は届いたのだろう。
もう少しで、あなたに─────あえる。
自然と口元に浮かんだ微笑を、誰が責められようか。
寝苦しい夜が続いた今年の夏で、多分最も爽やかな風が吹きぬけた。
「ん…?」
ふいに感じたその違和感に、半助は目を覚ました。
自分以外の人間がいるはずもないのに、部屋中を見渡してみる。
暑さの為か、いつの間にか肌蹴てしまった着物の隙間からまた風が入ってくる。
肌蹴た着物を直そうともせず、半助は首をかしげた。
特に異変があるわけでもない。
ただ…
誰かの声が─────した。
気のせいだとは思えなかった。
否、思いたくなかった。
「……利吉君…?」
呼びかけても、答えなどない。
そんなことは分かりきっていたが、呼びかけずにはいられなかった。
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