最後の一振りで、最愛の人の、最期を飾る。
自らも決して無傷ではない幸村は、肩で大きく息をしながら額の鉢巻をむしり取った。
そして、倒れてもなお鎖鎌を離そうとしない半蔵の、その逆の左手に真田の六文銭の鉢巻を握らせる。
死を恐れはしない半蔵だろうが、情に厚い幸村の性格がその行動を起こさせた。
「これで…六道を…」
端的な幸村の言葉につられるように、半蔵はいつの間にか見慣れてしまったその鉢巻を、見つめる。
「…ありがたい」
静かに、だが、確実に。
口布に覆われているため、くぐもってしまった声が聞こえた。
表情は見えなかったが、それでも笑みを浮かべていることに、不意に幸村は気付く。
その些細な変化にも気付けるほど、共に深い時を刻んでいたことに、今更ながらに泣きそうになった。
あまりの、嬉しさに。
もう起き上がらない想い人に触れようと伸ばした掌を、途中で強く握り締めた幸村は
「さらば…半蔵…」
もう光を映さない半蔵とは逆に、強い意志を抱いた瞳で、家康のもとへと歩き始めた。
もともと、戦えるほどの力が残っていたわけではない。
「家康殿…御覚悟を…」
そう言って現れた、鬼神もかくやといった様子の幸村に、誰もが恐怖を抱いた。
もちろん満身創痍で動きも鈍いが、誰一人として彼に挑みかかる者はいなかった。
「…よかろう」
だが、そう呟いて傍らの槍を手にした家康の目には、恐れはなかった。
ただ、畏れは、あった。
勝負はあっけないほど、早く終わった。
あまり目立ったことはないが、家康が武芸に秀でていた為でもあろう。
立っているのもやっとであった幸村は、槍を手放すことも無く、今では地面に伏している。
そして、もう、二度と立ち上がれない。
ようやく戦が終わったという安堵感に包まれた陣営が、再び緊張に包まれた。
「は、服部半蔵殿…討死!!」
ほんの数刻前まで、幸村と半蔵が戦っていた場所は、あまり人目につかない場所だったせいだろうか。
本来なら、幸村の到着よりも早く知らせが来ていてもおかしくなかったはずだ。
「…ここへ」
幸村がここへ到達していたことで、ある程度の予測はしていたのだろう。
そう告げる家康の声は、落ち着き払っていた。
赤備えの鎧を纏った若武者が倒れていることに驚きはしたようだが、足軽姿の若者達は担架のようなものに載せた半蔵を、家康のも
とへ運んだ。
既に硬直の始まったその小柄な体を、軽々と横抱きにした家康は
「御苦労」
そう言って足軽達を下がらせた後、もう一度小さく「御苦労」と呟いた。
何をするのだろうと、見守る家臣の前をゆっくり歩いて、幸村の側で立ち止まる。
半蔵の、いつもの鎖鎌を握り締めた右手と、六文銭の鉢巻を掴んで放さない左手。
幸村の、いつもの槍を握り締めた右手と、地面を掴もうとしているかのような左手。
「…妬けるの…」
そう呟いた家康の真意が分からない家臣達は、互いに顔を見合わせている。
「見ておれ」
ざわつく家臣にそう告げた家康は、そっと半蔵を幸村の側に横たえた。
そして、お互いの左手を、重ねる。
「…あ」
最初に声を出したのは誰だったのか。
お互いに獲物を持っていない左手が、まるで最初からそうなるのが当たり前だったかのように、重なった。
「ふむ…六文で二人分にしてもらえんものか…」
冗談めかしてそう言った家康だが、徐々に肩から力が抜けていくのが目に見えて分かった。
家臣の中から、ゆっくりと信之が進み出るが、その行動を咎めるような人間は、家康を含め、誰もいなかった。
まるで家康など見えていないかのように、弟の側まで歩いてしゃがみこむと、苦笑いを浮かべる。
「六文銭を預けたら…お前が、困るだろうに…」
それでもそこが、弟の“らしさ”だと思っているようで、その顔には負の感情は微塵も感じられない。
兄弟が相食むことも珍しくない戦国の世で、彼は彼なりに弟を大切に思っていたのだろう。
無論、それが分かっていたからこそ、幸村も兄を尊敬し大事に思っていたようだ。
「半蔵とて、それを分かっておったと思わんか?」
「…と、言いますと?」
しゃがみこんだまま家康を見上げる信之の目には、苦笑を浮かべた男が映っていた。
「この六文銭を預かってしまったら、お主の弟は困る…そうしたら、半蔵はどうすると思う?」
「なるほど」
いつの間にか家康の後ろから現れた忠勝は、家康と目を見合わせると、確認のように頷き
「半蔵のことです。きっと幸村殿を待ってるでしょうな」
いつも豪快な話し方をする男にしては珍しく、静謐な声音だった。
「ああ見えて、冷たい男ではないからの…」
とても穏やかな笑顔を浮かべた家康の言葉に、どこか安心したように、信之は微笑んだ。
「…そう、ですか」
あまり話したことはないけれど、もともと信之は半蔵に対して悪い感情は持っていなかった。
それにあの弟が、真田の六文銭を預けるほど惚れ抜いた相手なのだから。
「次の世では…お互い…何にも囚われず…愛し合えるといいな」
泣き出しそうな表情をひた隠した信之は、そう告げた後、自らが身に付けていた六文銭の家紋を、二人の手の上に乗せた。
「おお…これで二人が共に…」
涙を隠そうともしない忠勝は、義理の息子の行為に笑みを見せた。
やや強引に、二人を共に弔うことにした家康は、不意に呟く。
「………すまなかったな…」
二人の時間を、犠牲にしてしまったけれど。
それでも、こうして、ようやく、天下を統べられる。
「今まで、ありがとう」
微かな笑みを浮かべた家康の顔には、少しだけ皺が目立ち始めていた。
TOP BACK NEXT