翌日、寝過ごしてしまった半助は飛び起きた。
ここ最近、利吉からの手紙を肌身離さず持っていたが、今その手紙は床の上に静かに舞い落ちていた。
慌てて準備をすませると、テキストをひっつかみ教室へ走って行く。
途中で他クラスの先生に注意されたが、謝罪にならない謝罪を言って走り去ってきた。
(危ない…教師が遅刻していたら格好がつかん…)
朝食を抜いてしまったが、今日の朝食には練り物があったようなので、食べ損ねたことにあまり執着はしなかった。
どうにか間に合った半助はいつものように教室に入る。
「おはよう!今日も元気か〜?」
笑顔で入ると、いつもは騒がしい生徒達が静まり返っていることに気付いた。
「…どうした?」
首を傾げて尋ねると、生徒達はお互いに顔を見合わせてばかりで、誰一人として口を開こうとしない。
何かがあったとすぐに分かった。
それも…かなり深刻なことのようだ。
いつものようなギャグでは済ませられないようなことが起こったらしい。
「何が…」
更に尋ねようとすると、しんべヱがたまりかねたように声を出した。
「先生!利吉さんが死んじゃったって本当!?」
…どういう…ことだ…
「どういうことだ?」
どういうことなんだ!?
しんべヱの言葉が引き金となったようで
「だって…今朝、山田先生が…血相を変えて出て行って…」
「どこかの城が…全部…燃えてなくなったって…」
「利吉さんが…戦っていたところだって聞いて…」
口々に話し始める生徒達を、いつもなら一喝して止めるはずなのに、今日は止められなかった。
「行き先は…昨日合戦があった場所だって言ってました…」
冷静な声に目を向けると、きり丸が俯いていた。
その言葉が利吉の言葉を思い出させた。
『この手紙は…どこかの合戦が終わってから…開いてください』
その合戦が利吉の参加する合戦だとは、嫌でも気付いていた。
つまり、あの手紙を今…開け…と?
半助は震える指で無意識のうちに懐を探った。
しかし、そこには求めていたあの手紙はなかった。
自分の部屋しか心当たりはないと気付いた瞬間、手に持っていた物を全て投げ出して半助は走り出した。
「先生!?」
生徒達の突然のことに驚いた、そして責めるような声が後ろから追いかけてきた。
だが今は、それどころではなかった。
あなたの声が…聞こえた。
無様に倒れこんだ上体を起こし、どうにか壁に背を預けるようにして座る。
腰に手をやり、武器になりうるものがないことを思い出し、体から力を抜いた。
今ここで足掻こうが、約束は守れる。
今ここで足掻かなくても、約束は…守れてしまう。
諦めに似た感情に支配され、俯いた利吉の視界には、だらりと投げ出された自分の腕が映った。
「…この手は…」
誰かを守ることなど、できないのか?
足音が段々と近付いてきて、利吉のもとで止まった。
「どうした?わが城の手の者のようだが…」
涼やかな声に、目だけを動かして見上げればそこには…
「と…と、の…!?」
忍者にしては気配を消していないと思えば、利吉に近付いてきたのはこの城の殿だった。
つまり、敵に乗り込まれた城の、命を狙われている城主。
「こ、こんな所で、な、にを…」
前に見た時とは全く違い、町民が着ているような着物を纏っているが、その年若い端正な顔には見覚えがあった。
「…そろそろ騒がしゅうなってきたからな…頃合だと思って出てきた」
つまりはどこかに隠れていたということだろう。
これだけ長い間、隠れることができたということは…
「殿っ…お戻り下さい…!!」
もしかしたら、この騒ぎが終わるまで、隠れられるかもしれない。
あるいは…自分が囮になっている間に、例の通路から逃げられるかもしれない。
「おぬしは…確か、山田利吉…とやらか?」
たかだか一介の忍でしかない自分の名を、殿が覚えている事を疑問に思ったが
「はっ…」
ともかく今はまだ雇い主なので、どうにか起き上がり姿勢だけでも正そうとした。
それが意味することに気付いた殿は、慌てて近付き
「そのようなことはせずともよい。それより…どうしてここにおる?」
着物が血で汚れるのにも構わず、ふらつく利吉を支えるとやや強い口調で尋ねる。
「殿を…お守りすべく…」
苦しい息のもとでそれを告げると、殿の顔が歪んだ。
「…馬鹿者が…逃げろと言ったはずだぞ?」
殿に支えられ少しは動きやすくなったので、利吉は手早く解毒薬を矢傷に塗りこむ。
この傷口にこの解毒薬が効くかはわからないが、何もしないよりマシだという判断からだ。
それを痛々しそうに見ていた殿は、急に弱々しい声を出す。
「のう…」
「何で、ございましょうか?」
やはりあまり強い毒ではなかったのだろう、呂律も回るようになった。
解毒薬が効いてきたのか、利吉は自力で起き上がり姿勢を正す。
「何故…助ける…?」
俯いたまま尋ねる殿に、利吉は答えるのを躊躇う。
「それは…」
あの日、不意に耳に入ってきたあなたの笑い声が、あの人の笑い声に似ていたから。
ふとした瞬間のあなたの笑顔が、あの人の笑顔のように温かかったから。
…そして…あなたの決意に、理不尽なものを感じたから。
全ての感情を押し込めて、いつものようにポーカーフェイスをつくる。
「…仕事です…」
「そうか…仕事熱心なのだな…」
殿はそう言うと、少し悲しげに目を伏せた。
殿がどのような答えを望んでいるか、それは本人にしか分からない。
だが多分、それに近いであろう答えを、利吉は答えることができたはずなのだ。
───人間は誰かに必要とされたがるものなのだから。
利吉はそこで会話を途切れさせてはいけないと思い、軽い口調で言葉を続けた。
「本当は…」
利吉が口を開けば、殿が訝しげに利吉を見つめる。
「正義の為ですよ」
冗談めかして言うと、殿は一瞬目を大きく見開いた後、噴き出した。
「そうか…正義を理由にするとは思わなんだ…」
上品な笑い方とはいえなかったが、それを不快だとは感じなかった。
「お主は、不思議なやつじゃ」
一国の主であるにもかかわらず、一切陰を感じさせない笑顔だった。
(ああ…だから…)
顔が似ている訳ではない。
笑顔が…笑った雰囲気が似ているのだ。
そして、それ故に…この人には、過ぎた荷だったのだ…
この国は。
つられるように微笑んだ利吉は、遠くで静かな足音を聞いた気がした。
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