ぼんやりしていると、急に自分が惨めに思えてきて半助は笑い始めた。
喉の奥で笑い続けていると、ふいに戸口に人の気配を感じ、笑いを止める。
ゆっくりと振り返ると、そこには心配して着いて来たのだろう、は組の生徒達がいた。
「ああ…すまなかった…授業を始めようか…」
立ち上がりかける半助に、また生徒達は尋ねてくる。
「先生…利吉さんは…?」
「さぁ…どうだろうな…」
ぼんやりした半助の姿に、生徒達が不安がっているのが嫌でも伝わってくる。
だが、今はそれを取り繕えるほど、落ち着けない。
「利吉君一人なら、逃げ切れているかもしれない…」
全く無い可能性ではない。
ただ、彼が一人で逃げたのなら…だ。
「そっか…そうだよ…利吉さんは一流の忍者だもん」
半助の言葉に込められた意味が、分かるはずもない生徒達の表情が、少しだけ明るくなった。
「…利吉さんが味方していた方…全滅だってさ…」
突然響いた声に、半助はその声を発したきり丸を見る。
「どこで聞いた?」
自然と低くなってしまう声を、いつもの調子にまで戻せない。
「朝刊配ってたら…おばちゃんたちがそう…」
「他に情報はないのか?」
いつも以上に鋭い視線で尋ねる半助に、きり丸は言いにくそうに呟く。
「…しかも、お殿様も…」
俯いてしまったきり丸に、半助は畳み掛けるように尋ねる。
「何故、殿が死んだと分かる?城は燃えたのだろう?」
いつもの口調に安心したのか、きり丸達の肩から力が抜けた。
「殿様の首を…敵方の忍者が、持って帰ったんだって…」
そうか…彼が命をかけて守ろうとした殿まで…
「…そう…か…」
半助は一度目を閉じて、また開いた。
そしてその時にはもう教師の顔になっていた。
「よし。悪かったな。では授業に戻るぞ」
「先生!?」
生徒達が驚いたように言うのにも構わず
「仕方がないだろう?テキストが進んでいないんだ」
いつも通りの台詞を無表情で言われるのは、生徒達にとってどれだけ居心地の悪いものだっただろう。
半助はすぐに教室へ戻っていった。
まだ敵は気付いていないようだが、見つかるのは時間の問題だろう。
なにせこちらには気配を消すことの出来ない殿がいる。
「逃げよ」
急に落ち着いた声が後ろから聞こえて、利吉は思わず振り返る。
「殿!?」
「はよう!」
「しかし!」
小声で語勢だけを強めるが、利吉の声は殿によって遮られる。
「私は良い家臣に恵まれておったのだと……そう思えるようになった…幸せだった…お前のおかげだ…」
瞳の奥に、堅い意志の光を感じた。
「礼を言うぞ。利吉」
「殿!!」
にこりと微笑んだ殿には、もう何を言っても無駄だと利吉は気付いてしまった。
その真っ直ぐな人に、嘘をついていたことに、今更ながら胸が痛んだ。
「殿…わたしは…あなたに嘘をつきました…」
「嘘?」
「あなたを助けたのは…仕事でも、正義の為でもありません…」
殿は黙って利吉の言葉を聞いている。
そんなこと、最初から知っていたと…そんな表情で。
「あなたが…わたしの大切な人に、似ていたからです…」
「…そうか…」
全てを赦す様に、でもどこか嬉しそうに、殿は何度も何度も頷いた。
「殿…」
もう一度、謝罪の言葉を口にしようとした利吉の心に気付いたように殿は声を出す。
「分かった…だが私はお前を…守りたいのだ……私はいつも皆に守られてばかりだったからな…」
苦笑も、やはりどこか似ていた。
「本当に…感謝しておる」
きっとそれは利吉だけでなく、最後まで殿と命運を共にしようとした家臣達全てに対する感謝。
静かにそう呟いた殿は、また微笑んだ。
覚悟を決めた人間とは、こんなにも人の心を締め付けるものなのか?
かつて自分がそうであったことを思い出し、利吉は僅かに眉を顰める。
そして利吉は拳を握り締め、精一杯の笑顔を浮かべた。
「でしたら…殿。次にお会いした時には、褒美を頂きとうございます」
きり丸のようにうまくは言えないものだと思った。
なにしろそれは、叶わぬ願い。
それが分からぬわけでもないだろうに、殿は微笑みを浮かべたまま厳かに
「…うむ。よかろう。何でもとらせよう…何が欲しいのだ?」
かつてない親しさで一国の城主が、一人の忍者に尋ねた。
「では…あなた様の…」
利吉は一度、声を詰まらせたが平静を装い
「あなた様の…笑顔を…」
そう言いきってどうにか微笑みをつくった。
殿は驚いたような顔をしたが、笑いながら
「そんなもの…今ここで、いくらでもくれてやろう…」
「いえ…次にお会いした時に…また…」
利吉の答えに、今度は苦笑しながら殿はしっかり頷いた。
「よかろう」
殿は利吉の背を軽く押した。
「さ…行くがいい…」
それでもまだ何か言おうと、口を開いた利吉より早く言葉を発した。
「振り返るな…お前はお前を待っていてくれる者の所に、迷わず…帰るんだ」
『振り返らないで…君は君を待っていてくれる人の所に、迷わず…帰るんだよ』
殿の言葉と笑顔は、忍者に成り立てで人を殺す事を迷っていた時、そう告げた半助の言葉と笑顔に重なった。
「ありがとうございました…」
まるでその時のように、自然と利吉の口から感謝の言葉が出た。
それに、笑顔を浮かべながら殿は…手を振った。
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