中尉にある意味で先を越されてしまったが、私にはまだまだ余裕がある。

たかが頬へのキッキッキッキスくらいで…

……思ったより凹んでいたようで、仕事の効率が約7割ダウンしていた。

中尉の目がいつも以上に冷たくなったのも、そのせいだろう。

だが、元はと言えば彼女が…鋼のにあんなことを……

待て。

つまり私もしたいということか?

頬に?

いやいや…それはまた…

「失礼しま〜す」

軽くトリップしていたら、ノックの音と共にドアが開いた。

そこにいたのが鋼のだと気付き、慌てて表情を引き締める。

返事があってからドアは開きなさい。

そう言ってやろうとしたが、彼の方が口を開くのが早かった。

「…どうしたんだ?大佐…」

「……何がだね?」

「…鼻血…出てるけど…?」

慌てて鼻を隠し、ティッシュに手を伸ばす。

興奮しすぎたようだ。

「…大丈夫か?何か、調子悪りぃって聞いたけど?」

心配してくれてありがとう。

「平気だ。ところで…何の用だい?」

資料室の鍵は渡したままだし、他に用事があるとは思えない。

「なんかさ…手紙を渡されて…それがどうやらどっかの将軍らしくてよ…」

ラブレターか…?

「これ…」

将軍から渡されたという書類を、私の手に預け彼はソファに座る。

見かけによらず体重が重いであろうことを予測させるほど、少年はソファに沈み込んだ。

もっと固めのソファを買っておこう…

「…私が見ても?」

「よく分かんねぇし…見てくれよ」

許可も得たことだし…と手元の書類の文字に目を走らせる。

大したことないだろうと眺めていると、とんでもない文字が目に飛び込んできた。

「…西部視察の…護衛…だと?」

「ったく…めんどくせーよな…」

本当に面倒くさそうに言う彼は、事の大きさが分かっているのだろうか?

「君は…これがどういうことか分かるかね?」

「へ?西部に視察に向かうお偉いさんの護衛だろ?」

一度は書類に目を通しているらしい。

「…西部が…どんな状況か分かっているのか?」

「あんまり軍にとっていい状況じゃねぇんだろ?確か…不穏分子が…」

「そこまで分かっていて…まさか行く気なのかい?」

思ったよりも情報が彼に渡っていないことに、やや焦りが出てしまう。

「だって…それ…命令だろ?」

「……ああ。命令だ」

わざわざ正式な書類で、私を通さずに直接『鋼の錬金術師』に与えられた命令。

国家錬金術師は大総統府直属の機関だぞ?

こんな横暴なまねをするとは、正気の沙汰ではないだろう。

だが、いるのだ。

軍の中には、軍役につかず研究ばかりをしている国家錬金術師を馬鹿にする連中が。

戦争の時にしか役に立たないと、考え違いをしている人間が。

だから大総統府直属とはいえ、自分の思い通りになると勘違いしている。

「だったら…」

「だが、嫌がらせとも言える」

私がこれ以上の力をつけるのを恐れている。

手っ取り早く周りから力を削っていく気なのだろう。

今現在の部下達は、簡単に異動もさせられないので、一番簡単に引き離せる彼を選んだ…といったところか。

浅はかな。

「嫌がらせ?」

何となく察しはついたのか、明らかな不快を表している。

彼はやはり聡いのだと、こんな時に感じてしまう。

「……しかも…こいつか」

命令を下した馬鹿者の名に、見覚えがあるのが更に腹立たしい。

「え?」

「いや……なぁ、鋼の…」

こんな奴の名など、どうでもいい。

「もし、不穏分子が将軍に銃を向け…」

座ったまま銃を構える仕草をして、少年に向ける。

あまり銃を撃つのは得意ではないが、構えになら自信がある。

「それを撃ったら?」

引鉄を引くように指を動かせば、はっきりとした少年の声が返ってきた。

「撃たせなければいい」

自分の力に、自信を持っている迷いのない声。

だから不安になる。

「どうやって?物陰に隠れているかもしれないのだぞ?」

「っ…それ…は…」

案の定、接近戦を前提として考えていたようだ。

不穏分子は将軍を殺せればいいのだ。

わざわざ戦う為に近付いてくるわけはないだろう。

銃を撃ったら即座に逃げる。

容易に思いつくであろうことを、何故この聡い子供が思いつけなかったのか?

それだけ…今回の命令に戸惑いを感じている…ということか…?

「答えは一つだ」

体から力を抜いて、完全に椅子に背を着ける。

多分、馬鹿にしたような笑みが顔に張り付いているのだろう。

自分でも分かるほどやる気なく、両手を広げて告げる。

「自分の身を盾にする」

鋼のが息を呑んだのが分かった。

こういうことは、教えてもらわなくとも予測がつくと思うが?

軍の人間なら。

「まあ…大体それが護衛の役割だ」

本当はそれだけではないのだがな…

自分は何を怯えさせるようなことを言うつもりなのだろう?

「そんな…」

「軍の狗」

自分でも耳を塞ぎたくなるような、冷たい声が出た。

「いいか?」

身を乗り出すようにして、机に肘をつく。

「国家錬金術師になるとは…そういうことだ」

私は何をしたいのだろう?

諦めさせたいのか?

右手と、左足と…弟の体を取り戻すことを。

「…分かってる」

暫く迷っていたようだが、鋼のは急に顔を上げる。

「覚悟はしてるから」

子供のような穢れなき瞳で。

大人のような清濁併せ呑む器で。

そう告げられれば、これ以上は自分は踏み込むことはできない。

いや…もとより触れることすらできないのだ。

「そう…か」

座り慣れてしまった椅子に背中を預ける。

もう、どうしようもないらしい。

結局自分は、この子供に何の影響も及ぼせない。

深い溜息が出た。

「何?心配してくれたの?」

ニヤリと形容するのが相応しいような笑顔で、鋼のがこちらを見ていた。

…ここで本音を出すのは得策ではない。

ただの変な大人のプライドだがな。

「君のいいように捉えたまえ」

曖昧な言葉で逃げることにする。

私もずるい大人になったものだ。

「へいへい」

どうやら私の本音とは程遠い捉え方をしたようだ。

だがそれを訂正したところで、更なる混乱が待ち構えている。

残念だが、これ以上は告げられない。

「まぁ命令だし…仕方ねぇ…行くか…」

言葉とは裏腹に、まだ迷っているのが分かる。

やはり怯えさせてしまったのだろうか?

…いや、そんなことはない。

彼はいつだって、現実を見るから。

「待ちたまえ」

死の可能性に怯えて、行きたくないと言ってくれればどれほど楽か。

だが彼にそれを求めるのは、無理だ。

「何?」

「命令だから仕方ない。だが…君に行かれては私が困るのだよ」

理由は私にも分からないのだが。

「手を打とう」



そして、電話に手を掛けた。



電話の交換手との長ったらしいやり取りの後、出てきたのは…

今回、鋼のを召喚しようとした汚い大人。

「お久しぶりです…」

『おやおや。マスタング大佐。どうかしましたかな?』

分かってて言ってやがる。

「今回の西部視察の護衛に鋼の錬金術師を…と伺いましたので…」

『ああ。そのことかね?何か不具合でも?』

こちらが容易に要求を跳ね除けられないのを知っていて、わざと伺いを立てている。

「ええ…少し問題がございまして…」

『何だね?言ってみなさい』

気持ち悪い猫なで声に、今すぐにでも電話を切りたい。

「彼は…鋼の錬金術師は、見た目以上に礼節をわきまえない子供です」

「何だと!!」

丁度いいタイミングだよ。

さすが鋼の。

『…今の声は?』

「聞いての通り。鋼の錬金術師です」

『……子供は元気がある方がいいだろう』

ふん、言い訳にすらならないのも無様だな。

どうにか鋼のを行かせたくないという思いで…演じる。

「ですが、護衛には不向きではないでしょうか?この状態では将軍をお守りできるかどうかも…」

熱く語る口調の割に、表情が伴っていなかったらしい。

鋼のが複雑な表情を浮かべている。

『どうやら噂は本当だったらしいな。マスタング君』

かかった。

さあ…どうやって貶めてやろうか?

「噂…といいますと?」

あえてしらばっくれてみる。

そんな噂、聞き飽きた。

『知らないとは言わせん。東方司令部の司令官が男色…しかも少年愛好家だったとはな』

思わず吹き出しそうになる。

向こうには息を呑む音にでも聞こえただろう。

「そんなっ…ただの噂です!デマです!!」

必死に訴えるフリ。

うまく必死さが伝わったようだ。

勝ち誇ったような愚か者の声が聞こえる。

『さあ…それはどうかな?現にこうやって他の人間の手に渡るのを恐れているだろう?』

下衆が。

彼は、誰のものにもなりはしない。

もちろん…私のものにも、なりはしない。

「そ、それは…」

怯んだフリ。

『何だ?言い返せないのか?やはりお前は…』

心底楽しそうだ。

こんな年寄りにだけはなりたくないものだ。

「お言葉ですが将軍」

やはり、長い時間この声は聞きたくない。

それに時間の無駄だ。

私にとっても、鋼のにとっても。

予定変更…とっととけりをつける。

「私にそのような疑いがかかったのなら…将軍も疑われるのでは?」

『何?』

声のトーンが変わった。

こうも思い通りだとつまらんな。

「周りの人間には、将軍も鋼の錬金術師に執着しているように思われるのではないでしょうか?」

『…ふん。そんな噂など…』

「しかし、私が男色だと疑われたのなら…」

『まさか私までもがそうだというのか!?』

急に怒鳴り散らすので、受話器を耳から離す。

うるさい。

「ですが…あり得ないと一笑に付するには、将軍にとって頭の痛い問題になるのでは?」

ここは遠慮せず、思い切って失脚してくれ。

『──っ!!貴様と一緒にするな!!』

それはこっちの台詞だ。

4年前、私の尻を撫で回した貴様が言うな。

「いかがいたしましょう?…鋼の錬金術師、そちらに向かわせましょうか?」

『チッ…!!』

舌打ちが聞こえたと思ったら、力いっぱい電話を叩き切る音がした。

ようやく終わった。

とりあえずこれで、彼の召集は取り消されるだろう。

わざわざ正式な書類で、通達がくるはずだ。

受話器を置くと、複雑な表情を浮かべた鋼のにじっと見られていた。

「大佐ってさ…」

「言うな」

言われる言葉が予測できて、胃が痛い。

男色ではないとは言ったものの、どう言い訳すればいいのか本当のところ分からない。

そこを突っ込まれたら、お手上げだ。

だが、予測に反して彼は言った。

「いや…大佐なんだな…って」

「は?」

「やっぱそれなりの演技力はなければ、出世できないんだな…」

しみじみと言われて、正直拍子抜けした。

「何だ…そういうことか」

「どちらにしろ嫌な大人に変わりはねぇけどな」

「それは酷い言い草じゃないか?」

演技力を褒められたところで、早速哀しそうな表情を浮かべてみた。

「あ…悪りぃ…そうじゃなくてさ…俺…結局は守られてばっかだなって…」

引っかかられて、妙な罪悪感を覚える。

「…そんなことはない」

「そんなことあるんだって。だから…助かった」

いつもは絶対に言わないだろう言葉に、本当に驚いた。

それに、どこかすぐったい気分だ。

「君の口からそんな殊勝な言葉が聞けるとはね。それだけでも十分収穫があったと思うよ」

「…何か…することとかある?」

「……何か…とは?」

一瞬だけ不埒な妄想が浮かんで、消えた。

「大佐に借りを作ったみたいでやだな…と思ってさ」

「なに…気にするな。いつか一緒に食事をしてくれればいい」

さり気なく誘えた自分を褒め称えたい。

いつもなら、嫌そうな顔で拒否する彼が、躊躇いながらではあるが頷いた。

ここぞとばかりに、誘いをかける。

「よし。ならば早い方がいい。今夜はどうだ?」

「早ッ!…まあ…俺はいいんだけど…」

鋼のの視線を辿ると、机の上では乗せきらず床にまで置かれた書類達。

「……終わらせるから…」

「…まあ期待しないで待ってるよ」

「終わったら資料室へ迎えに行こう」

「了解」

「アルフォンス君も一緒に…」

「あ…アルは…」

そうか食事の必要がない彼に、食事の場は苦痛かもしれない。

「では二人っきりでいいかな?」

冗談めかしてみたが、かなり心臓に悪い質問だった。





彼は笑って頷いた…だが…

今にも泣き出しそうに見えた。









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