ここ最近、事件が起こらない。

起こってほしいわけではないが…さすがに暇だ。

それに昨日、鋼のと食事をするために、必死に仕事を終わらせた。

そのために机の上には処理すべき書類が、まだ3cmくらいしか積み上がっていない。

もうちょっと積み上がらなければ、やる気は出ない。

だが…あそこまで自分が死に物狂いで仕事をするとは思わなかったな。

彼が絡むといつだって自分の予測の範囲を超える。

良い方にも、悪い方にも…



不意に昨日の光景が頭をよぎる。



店の前で別れた時の彼が、とても危うげだったからストーカーまがいのことをして、宿に向かった。

普段からストーキングしているわけではなく、昨晩は本当に妙な胸騒ぎを感じたのだ。

私は自分の勘は信じる性質だ。

昨日の鋼のは元気がないわけではないが、どこか無理をしている気がした。

普段の彼とどこがどう違うのか、はっきりと説明は出来ない。

だがほんの数年の付き合いでしかないが、その違和感には確信を持った。

それくらい彼の事を見てきたのだ。

自覚したのは最近だが、今思えばどうして気付かなかったのかと不思議でならないほどに。

あんなにも、気にかけていたのに。

いや…あれはもう執着だな。



そして案の定と言うべきか、彼は一人でいた。



弟の名を呼び続ける姿に、微かな絶望を感じた。

狂ったような彼に対する落胆ではない。

罪に押しつぶされそうな咎人に対する憐憫でもない。

自分がもし彼と同じ立場だったとして、狂わない自信も罪を受け止められる自信もないからだ。

それでも絶望とも呼べる感情に、心の全てを支配されてしまった。

…それはきっと、彼がその名以外を必要としていなかったから。

私の名前など、彼にとっては記号以外の何ものでもないと見せ付けられた気がしたから。

彼にとって必要なのは『アルフォンス・エルリック』だけだ、と。

そう…そして彼はその時、本当に弟以外を求めていなかった。

ずっと側に立ち尽くしていた私も、降りしきる雨も、取り巻く世界も…もしかしたら彼自身でさえも…



弟以外は必要としない彼に…

自分自身でさえも必要としない彼に…

無性に腹立たしさを感じた。

私が求めているものを、こんなにも求めてやまないものを…

彼は否定したのだ。



私には、彼が、必要なのに。



カッとなるような衝動的なものではなく、じわじわと確実に怒りが湧き上がってきた。

決してこちらを振り向かない彼に対する、みっともないこの想い。

だから、自分でも呆れる程、大人気ないことを言った。



知らないのに。

知らないくせに。



彼の気持ちなど分からないし、ましてや彼の弟に対する気持ちなど知りたくもない。

自分でも、ただの八つ当たりだと気付いていた。

だから彼の口から「憎い」という単語が出た時、純粋に驚いた。

自分の憶測とも呼べぬものが、彼の本音を引き摺り出したのかもしれない。

自分の醜い本音に、彼の心の淀が触発されたのかもしれない。

そう思うと気分が良かった。

きっとただの勘違いで、相変わらず私は彼に何の影響も及ぼせないのだろうけど…



感情の吐露によって、彼はまた歩き出す。

いや…そんなことをしなくても、彼は歩き出してしまうのだろう。



そして彼の感情にさらされて、自分もまた僅かながら普段隠している感情をさらしてしまった。

彼ら兄弟に対する、妬み。

思ったほど深刻に考えていなかったのか、自然と笑顔を浮かべて告げていた。

それは見たままのことだったからだろう。

お互いを支え合う、誰よりも強い絆。

あんなにも…それこそ他人から見てもはっきりと分かるというのに、彼はその絆を信じられていなかった。

弟を信じられても、自分自身を信じられない彼のことだ。

自分が責任を果たしているか、まだ疑っている。

そんなものは、弟が彼から離れないことを考えれば、杞憂だとすぐに分かりそうなものなのに。



そのうち彼は……あるいは彼らはその答えに気付けるのだろう。

…私の、与り知らぬ場所で。

訊ねたのは私だが、その答えを待つのは私では役不足だ。

自分の器ぐらい把握しているつもりだからな。



突然フラッシュバックのように、鋼のの顔が浮かんだ。

あの時、雨でよく分からなかったが、彼の頬を涙が伝った気がした。

まさか泣くとは思わなかったが、その時の自分はそれを涙と判断した。

…今でもその判断は間違っていないと思う。

思わず抱き締めそうになった自分を、理性ともいえるもので必死に押さえ込んだ。

そんな必要があったのかも分からないが…ここで甘やかすのは、彼の為にならないと思った。

本当なら、この腕で…安心はできないだろうが、せめて人の温度を感じさせてやりたかった。

弟が温もりを感じられないからといって、君が温もりを感じられることに変わりはないだろう?

それよりも、君が弟に対して負い目を感じていることを気取らせる方が、よっぽど酷いことではないか?

そう、伝えたかった。

でも…できなかった。

それは全て…



私のエゴ。



自分が傷付きたくないが故の…







「大佐?」

不意に中尉の顔が目の前にあった。

美人がいきなり目の前に現れても、私は驚かない。

「…何だね?」

「…また仕事を溜め込むおつもりですか?」

気が付けば机の上には、考え事をする前よりも明らかに増えた書類が積もっていた。

「ああ…気が付かなかったよ…」

あまりやる気が出なかったが、そんな我侭は言っていられない。

自分の選んだ道だ。

上に行くためだ。

少しやる気を取り戻し始めてすぐ、まるでタイミングを見計らったように

「先程、エドワード君とアルフォンス君から連絡がありました」

「……彼らは何と?」

変な間が出来てしまったが、手元の動揺は抑えられた。

「…もうイーストシティを出る…と」

「そうか…」

直接、私のもとへは来てくれなかったか…

突き放すようなことをして、傷付けてしまっただろうか?

かといって可愛がるだけというのは…

確かにその方が簡単だが、いつかぼろが出てしまう。

これはそんなもので抑えられるほど、穏やかな気持ちではないのだから。





またぼんやりしていたらしい。

ため息をついた中尉が、退室しようとしていることに気付くのが遅れた。

「中尉…」

「何でしょう?」

数枚の決済済みの書類を持ったまま、彼女は振り返った。

「君は…してはならない恋があると思うかね?」

「…思います」

突拍子もない質問だったが、彼女は真面目に答えてくれた。

「そうか…参考になった。ありがとう」

自分の中で出ていた答えを、改めて他人の口から聞くと確固たるもののように思えてくる。

だからといって、それに従う私ではないのだが。

「では失礼いたします」

退室する中尉の髪を見て、あの金色を思い出そうとしていた。










考えただけで胸が熱くなる。

近付いただけで火傷しそう。





そんなもの、まだ甘い。







どうすればいい?





あの子の事を考えただけでも、全て焼け爛れてしまいそうなんだ。









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