落ち込んだ時や辛い時に思い浮かぶのは、母と弟と幼馴染とその祖母と賢い犬。
これだけの顔が思い浮かべば、もう十分だと思う。
愛する人達がこれだけいるのなら…
愛してくれる人達がこんなにいるのなら…
それはとても贅沢で幸せなことだと思う。
罪を犯した自分にとって、それはとても勿体無いことなのかもしれない。
そんなものを受け取る資格なんて、ないのかもしれない。
それなのに…
「────っ!!!!????」
変な夢で目が覚めた。
…本当に…変な夢だった。
「どうしたの兄さん?口なんか押さえて…気分でも悪いの?」
心配そうに聞かれて、自分が夢の中そのままに、口を押さえていることに気付いた。
「いや…別に…」
不自然にならないように、ゆっくりと口元から手を移動させる。
「…嫌な夢でも見たの?」
眠らない弟は、俺のこういった反応にすぐに気付いてしまう。
出来るだけ心配はかけたくないのに…いつも心配をさせてしまう。
「…嫌な…夢…?」
その言葉が相応しいとはどうしても思えなかった。
良い夢とも、思いたくないが。
「うなされてたよ?」
「…嫌な夢じゃないんだ…」
そう…確かに嫌ではなかった。
……おかしいとは思うが。
「どんな夢?」
「……変な夢」
「はぁ?」
「変っていうか…そう…びっくりするような夢…」
「何かいきなり飛び出てきたの?」
深刻な夢ではないと分かったアルの笑いながらの声に、それもあながち間違いじゃないと思う。
「ああ…そんな感じ…」
確かに夢の中で、いきなり目の前に飛び出てきたのだ。
あの…男が。
「なぁ…アル」
「何?」
「母さんのこと…覚えてるか?」
「何言ってるの?忘れるわけないじゃないか」
アルはそう答えると分かっているのに、俺はいつかアルが「忘れた」と言うことに怯えている。
そして何より…
自分が、あの優しい人を忘れるのが怖い。
「じゃあさ…母さんの…」
そこまで言って躊躇う。
この質問が、先程の夢の話に結び付けられてしまわないだろうか。
そして何より、鎧の弟の魂を傷付けはしないだろうか。
「母さんの…」
それでも…どうしても、確かめたかった。
「最後のキス…覚えてるか?」
しばらく沈黙が部屋を満たす。
沈黙と同時に、自分の心にも質問の意味が積もっていく。
俺は…一体…何を言った?
だが急に鎧の軋む音がして、アルが立ち上がったことを知る。
アルは黙ったまま、俺の横に腰掛けた。
「正直に言うとね…もう、忘れちゃったんだ…」
弟は無神経な質問をした俺を、赦した。
「わりぃ…変なこと聞いた…」
「ううん。そんなことないよ」
どうして、こんなことを聞いてしまったのだろう。
触れることを感じられない弟にとって、どれほど残酷な問い掛けだったのだろう。
「今は確かに感触とか僕には感じられないけど…」
アルはそう言うと、俯いたままの俺の肩に手を置き
「兄さん…僕がここにいること…分かる?」
急な質問は俺にとって、胸を抉るような言葉だった。
「当たり前だろ…?」
震える声で答えると、アルは何度も頷きながら
「僕がここにいる…兄さんもここにいる…」
呟くように
「兄さんがここにいる…僕もここにいる…」
囁くように
「兄さんも僕も…ここにいる…」
歌うように
「ほら…」
伝える。
「ね?こうやって…存在を確かめることはできるんだ…」
だから、いいんだ。
優しい声色に、不覚にも目頭が熱くなった。
「それに…最後のキスは忘れちゃったけど…」
頬に冷たい感触がした。
慎重にアルは近付いて、そして離れていった。
「記憶の中で、今も母さんのキスは残ってる」
「…ああ」
きっと初めてのキスは、生まれた瞬間。
『エドもアルも、私にとっての宝物なの。生まれてきてくれて…ありがとう』
優しい笑顔で、母さんはいつもそう言っていた。
『俺達も、母さんの子供で良かった』
だからいつか…いつか俺達も、そう言えたらよかったのに。
「感触は残っていないけど、キスしてもらったことは覚えているよ?」
「俺もだ」
特に化粧とかをする人ではなかったけれど、お日さまのようないい匂いがしたのも覚えている。
怒ると凄まじいほど怖かったけれど、それはいつだって自分達のことを思っていてくれたから。
きちんと自分で反省すれば、母さんはいつものように笑ってくれた。
「最後の一回じゃなくて、それまでのいっぱいのキスを覚えてる」
「ああ…」
朝起きた時、眠りに落ちる時、怪我をした時、泣いた時、喧嘩をした時、とても良いことをした時…
数え切れないほどの、愛情表現。
「だから…最後のキスだけに囚われないで?」
「分かってる」
俺は一体、何に囚われているんだ?
「母さんは兄さんを困らせたくて、キスしてたんじゃないよ?」
「そう…だな」
そうだ…一体、俺は何を考えているんだ?
「…そろそろ…帰る?」
「何で?」
ここは普通『どこへ?』と聞き返すべきだったのだろう。
アルはそんなことは当然だと思っているのか、朗らかな声で続けた。
「兄さんがそうやって悩む時って、大抵イーストシティに帰れば解決するでしょ?」
…やばい…ばれてるかも…
でも、きっとこの想いまでは気付かれてはいないはずだ。
「そう、だな……帰るか」
母の最後のキスが、記憶の彼方に消えてしまうことが…
母の愛情を忘れて、新しい愛情を求めてしまうことが…
怖い。
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