大佐の仕事が一段落するまで、特にたいした用事はないけれど、執務室で待っていた。
手持ち無沙汰に、まるで祈るかのように両手を組んで座る。
その左手を見れば、普段の生活には差し障りがないが、それなりに伸びてきた爪が目に付く。
横に座っているアルに気付かれないよう、目の前のカップを右手で持つ。
そろそろ時期が来た。
そう思っていたのに…
「あ。中尉…その…もしお時間が少しあるんでしたら…」
油断しているうちにアルが、紅茶を淹れ直しに来てくれた中尉を、引き止めてしまっていた。
「アル!余計なこと言うな!!」
「でも…」
気付いていないと思っていたが、この弟は俺のことをよく見ているらしい。
「何かしら?私でよければ力になるけど…?」
常にないほどの優しい声に、アルも大佐も内心驚いたようだ。
「あの…よろしければ兄さんの…」
アルの遠慮がちな声を、結局は止めきれなかった。
まぁ…いつものことだけど。
…パチン…パチン…
規則正しく金属の当たる高い音が、大佐の執務室に響いている。
「…全く…どんなことかと思えば…」
一応仕事をしているようで、机に向かっている大佐は呆れたような声で呟く。
「うっせぇ…」
そう精一杯低い声で呟くが、大人しく中尉に左手を差し出しているこの状態では、迫力など皆無。
「また随分、伸びているようね」
中尉はそう言いながら、丁寧に切ってくれる。
「…前に…自分で切って深爪したから…」
だから自分で切るのは嫌なのだ、と。
声に出さずとも伝わったようだ。
「…薬指かね?」
仕事を放棄したようで、横から興味津々といった様子で見ている大佐に目を向ける。
「よく分かったな…って当たり前か」
薬指の爪だけ、他の指の爪に比べると白い部分が多い。
中尉はその部分も丁寧に、時間をかけてゆっくりと切り揃えてくれた。
「よし。できたわ」
片手だけなので、やはり早く終わる。
そっと離された手の温もりに、妙な喪失感を味わった。
「ありがとう。中尉」
そんなものは場違いだと戒めて、笑う。
「どういたしまして」
微笑んだ中尉は、今度は右足を持ち上げる。
「中尉!?」
「足の爪は?」
「切ってない…けど…」
手の爪を切るのを忘れると、連動して足の爪を切るのも忘れてしまう。
「じゃあついでに切っちゃいましょう」
さっさと靴を脱がされて、慌てる。
手だけでも困るのに、この美しい人に俺は足の爪を切らせるのか!?
かなり慌てて言い訳を探す。
「で、でも…足なら自分でも出来るから…」
「まあ。いいじゃない」
どこか楽しそうな中尉に、それ以上何も言えずなすがままになった。
結局、くすぐったさと申し訳なさを堪えて何とか切り揃えてもらった。
「…ありがとうございました」
お礼を言うと、中尉は微笑んで爪切りを片付けながら
「いつでも頼んでいいのよ?」
「いや…そんな…結局毎回切ってもらっちゃって…」
実はここに来る時は、大抵中尉に爪を切ってもらっているのだ。
これ以上は迷惑をかけられない。
「…遠慮しているのかね?」
急に横から声をかけられて、素っ気無く返す。
「…別に」
「もう…素直じゃないんだから…」
呆れたようなアルの声に、更に眉間に皺が寄る。
「うっせぇ…」
どうせ俺はガキですよ。
確かに、素直じゃない自覚ぐらいある。
「しかし、機械鎧だと…大変だろう?」
俺にではなくアルに聞いているところが、大佐のムカつくところの一つ。
「そうなんですよ。いっつも危なっかしいんです」
呆れたようなそれ以外にも含みのある声に、軽くアルを睨みつける。
「そうだね。機械鎧では、爪は切りにくそうだな」
アルの言葉に納得しているようで、大佐は言いながら頷いている。
本当の苦労は分からないだろうけど、想像なら簡単にできるもんな。
「そうだ」
大佐はそう言って自分の机の引き出しを、ごそごそと漁っている。
「これを」
「ん?」
手招きをされて近付くと、ちょっと洒落た爪を磨くやすりを渡された。
「何…?これ…」
「やすりだが?」
「いや。そうじゃなくって…」
やすりにしちゃ無駄に装飾が凝ってるんですけど?
「やすりなら、深爪をしてしまう心配もないだろう?」
だろう?…って…そんな女の人なら一発で落ちてしまいそうな笑顔で言われても。
「そう…だけど…」
確かに深爪はしないだろう。
少し爪の手入れに時間がかかりすぎる気がするが。
「あら。素敵なやすりじゃない?」
「本当だ。兄さん、これ可愛いね」
中尉も多分アルも手元を見て微笑んでいるようだが…さすがに…
「可愛すぎだろう…?」
そこまで言って気付いた。
成る程…これは…もしかすると…
「女の人にあげようと思って、渡せなかったやつ…とか?」
どこかで否定して欲しいと願いつつ、冗談交じりで訊ねると、大佐は苦笑して
「自分用に買ったのだが、そんなに可愛らしいものとは気付かなくてね」
ひっくり返してみると装飾を施されている側の裏面は、確かにシンプルで。
こちらの面が表に見えていたなら、気付かずに買ってしまってもおかしくないだろう。
「ふ〜ん…で?大佐のは?」
わざわざ新しく買うほど必要だったのだから、新しく買った方を渡したら困るのでは?
自分でも珍しく気が利くなと思いつつ訊ねる。
「一応はあるのだよ」
そう言って、再び机の引き出しを漁る。
何入れてんだよ…職場の机に。
「本当はあまり使わないのだが…たまにね」
引き出しから大佐が取り出したのは、どこから見てもシンプルなもの。
本当にあまり使われていないようで、使ったやすり特有の白い痕はあまりない。
「ふ〜ん…」
暫く大佐の手の中にある、やすりを見ていたが、どうせならそちらの方がいいと思った。
シンプルだし…他意は、ない…と、思う…
「そっちがいい」
大佐は驚いたような表情を見せる。
「…いいのかね?新しいものではないよ?」
「いい。こんな可愛らしいのはちょっと…」
「そうか…君になら似合うと思ったのだがな?」
笑いを堪える仕草が腹立たしい。
「こんなのが似合っても嬉しくない」
その気持ちそのままが態度に出た。
でもこれはいつものことなので、お互いに気にしない。
「ではこれを…」
そう言って差し出されたやすりを受け取り、可愛らしいやすりを大佐の手に返す。
「…さんきゅ」
たまには素直になってみたかった。
「またな!!」
「あっ!!兄さんっ!?す、すみません。お世話になりました。では失礼します」
恥ずかしくて大佐の顔を直視できないまま、部屋を逃げるように出て行った。
俺は結局、何をしに執務室へ行ったのだろう…
明日、また出直さないといけないと思うと、面倒だった。
でも、それ以上に明日も会えると思うと、顔が緩む。
後ろでアルが早口で何かを言っていたが、それどころではなかった。
人に何かを貰うことが、こんなにも嬉しいことだと、初めて知った。
早速、宿に戻ったら、使ってみようかな…
嬉しくてちょっと…いや、かなり浮き足立っていた。
「…中尉……一応受け取ってもらえたよ…」
「良かったですね」
「ああ…良かった…」
だから、そんな会話がされていたなんて、思いも寄らなかった。
TOP BACK NEXT